カリール・ジブラン『預言者』
先日、神谷美恵子さんの訳と文章が載っている『ハリール・ジブラーンの詩』を紹介しましたが、やっぱり、ハリール・ジブラーンの詩そのものを読みたいと思い、原著では持っているものの日本語で読めるものをということで、日本語に訳されている『預言者』を手に取って読んでみました。
ちなみに、日本では名前の読み方が確定していないのか、ハリール・ジブラーンとカリール・ジブランという名前で本が出版されていますが、同一人物(Kahlil Gibran)です。
預言者
内容(至光社より)
レバノンの詩人・哲学者・画家である著者が人間の普遍的テーマ…愛、労働、喜びと悲しみ、友情など26項目について深く語りかけている。小型携帯版
勝手に五段階評価
★★★★★
感想
『預言者』(原題"Prophet")というタイトル、さらに翻訳しているのがローマ・カトリック教会の司祭でもあった佐久間彪さん(白百合女子大学名誉教授)ということから、キリスト教の神とか信仰を前提にして読む人も多くいるようですが、もっと広い意味での宗教的なイメージで書かれていると思います。
詩のようなものではあるのですが、基本的には物語です。
一人の預言者が街を去るときに人々が様々なことを尋ね、それに対して預言者が応えるというものになっています。
人々が尋ねる内容が「命」とか「仕事」とかについてなので、それぞれを単独の詩として読むことも出来ます。
ということで、日本語で『預言者』を読むのは初めてだったのですが、今回読んで響いてきた箇所を載せてみます。
まずは、生きることについて。
生きていることは闇だ、とは、あなたの聞いてきたこと。あなた自身も疲れたとき、疲れた者が言う其の言葉を繰り返しています。
しかし私は言いましょう。まことに生きることは闇。もし、そこに衝動がなければ。
「衝動がなければ」「生きることは闇」だと預言者は語ります。
「衝動」って何でしょうか。
それについては何も触れられていません。
人によっては、というか、僕だったら、この「衝動」には「好きなこと・もの」が入るかなと思います。
(本当は「愛してくれる人」とかを当てはめたいところですが、そうすると衝動とは違うような気がします。)
次に、今の自分の心情に響いてきた一節を。
あなたの喜びは、悲しみの素顔。
笑いのこみ上げてくる井戸は、しばしば涙で溢れています。
そういうことなのです。
悲しみがあなたの存在をえぐれば、えぐられたところにそれだけ喜びをたくわえることが出来ます。
「えぐれば」という表現がとても良いな、と思いました。
悲しみでえぐられたところに、それだけ「喜びをたくわえることが出来る」。
あまり自分で言うのも悲観主義的な気もしますが、この数年は悲しみでえぐられ続けたなと。
今は悲しみでえぐられたままですが、もし、喜びがたくわえることが出来るなら、本当に良いな、と。
最後に、似たような一節ですが、引用します。
嬉しいときには、自分の心の奥をのぞき込んでごらんなさい。すると見つけるにちがいありません。かつては悲しみの原因(もと)になっていたものが、今は喜びの原因(もと)になっているのを。
悲しくて仕方のないときも、心の奥をのぞき込んでごらんなさい。すると気づくにちがいありません。かつては喜びであったことのために、今は泣いているのだ、と。
僕の今の心情としては、後半の「かつては喜びであったことのために、今は泣いている」のだと思います。
子どもたちとの生活が「喜びであった」けれど、それが逆にその生活から離されていることで「泣いている」気がします。
大人になるまで近くで成長を見守りたかったですが、それが無理なので、そろそろ泣くのは終わりにしよう、というか終わったような気がしています。
今は、えぐられたところにどんな喜びがたくわえられるのか楽しみにしたいと思います。