映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

益田ミリ『痛い靴のはき方』

娘が実家にお泊まりに来ていた際、娘の夏休みの宿題で本を読む、ということがあるようだったので、僕も一緒になんか読んだ方が良いだろうな、とそのときたまたま新聞広告に載っていたこの本を買いました。
新聞広告を見たのはたまたまだったのですが、益田ミリさんの著書は結構読んでいていて、一番代表的なのは映画にもなった『すーちゃん』でしょうか。
新聞広告には『文庫オリジナル』とあったので、単行本で読んだことがある、ということもなく、手軽に読めるので手に取りました。
 


痛い靴のはき方 (幻冬舎文庫)

 
益田ミリさんの著作は『すーちゃん』のように、漫画もあるのですが、この本はエッセイです。
コミックエッセイとかでもなく、たまにイラストが載っていますが、文章になっています。

すごくざっくりとした言い方をすれば益田さんの日常が垣間見えるような特に大きな出来事があるわけでも、何かのテーマに沿って書かれたものでもないので、万人受けするようなものでもないと思います。
けれど、趣味は旅くらいしかない、と書かれているように、よく旅に出ていて、その旅が遠出のこともあれば、近場のちょっとしたお出かけのこともあり、それはそれで、旅好きな自分にとっては、またどこかに行きたいな、という気持ちにさせてくれます。

また、ふと思ったこと(もしかしたら何年も考え続けてきたことかも知れませんが)の文章もいくつか心にとまるものがありました。

「わたしのこと覚えてますか?」というタイトルの文章では、

 

たとえ、わたしが相手を覚えていたとしても、相手はわたしを覚えていないという前提で、挨拶をするようにしている。
益田ミリです、お久しぶりです」
とりあえず名乗る。そうすれば、先方だって対処の仕方があるというもの。

 
そうそう、「わたしのこと覚えてますか?」と言われるときにどう反応したら良いのか分からないときがあるのだけれど、そのときのヒントでもあるし、僕自身は忘れているのに、覚えてもらっている気でいることも多いな、と思ったりしました。

また、「人は必ずわかり合えるわけではない」という文章では、

 

人は必ずわかり合える。
大人たちから吹き込まれ、そうだ、そのとおりだと真摯に受け止めていたらたくさんの擦り傷を負ってしまった。あれは大人の願望のかかけらだったのである。
わかり合えない人との意見の食い違いは、回数を重ねれば重ねるだけ傷口が広がるわけで

 
僕も35年近く生きてきたので、さすがに人はわかり合える、という幻想(?)は抱かなくなったものの、たくさんの擦り傷を負ってきたな、と。
この文章はまだ続いていくのですが、「わかり合えない人との意見の食い違いは、回数を重ねれば重ねるだけ傷口が広がる」というのは、たとえ一回結婚した相手であってもそうなのだよな、と思ったりしました。

結局の所人はみんなわかり合えない、だからこそ対話を、ということも考えるのですが、その対話をすること自体がものすごく体力と気力のいるもので、ささっと切り上げてしまうのも、お互いに傷口が広がらずに済む方法だったりするのかもしれない、などとぼんやりと考えました。