映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

荻上チキ『彼女たちの売春』

 先日書いた 武田砂鉄『紋切型社会』と同じく、単行本の時から気になっていたけれどなかなか手を出せず、文庫になっていたのを知り、手に取って読んでみました。
 


彼女たちの売春(ワリキリ) (SPA!BOOKS) Kindle版

 

荻上チキ 『彼女たちの売春』 | 新潮社

 

内容(新潮社より)
風俗店などに属さず、出会い喫茶や出会い系サイトで知り合った客相手に行う、個人売春=ワリキリ。彼女たちはなぜこの稼ぎかたを選んだのか。都市や地方で女性たちに取材を続けた結果、貧困、精神疾患、DV、家庭環境などの様々な要因と、問題を直視しない社会の姿が浮び上がる――。女性個人の事情として切り捨てず、社会の問題として捉え直すために見つめた、生々しく切実な売春のリアル。

感想
 荻上チキさんの本というか仕事ぶりには本当にいつも圧倒されているのですが、この本もものすごい内容でした。
 月曜日から金曜日まで深夜にラジオ番組、しかも時事のニュースを読み解くという報道番組をこなしながら、本を出すというだけでもものすごい仕事量だと思うのですが、ただ本を出す、というだけではなく、この本に書かれているのは、国や研究機関が行ったと言ってもおかしくない調査期間と内容でした。

 この本では、ワリキリ(売春)=ソープランドなどの店舗に属さずに、ネットや出会い喫茶などで売春をしている女性たちを長期間にわたり、そして100人規模で行った調査結果に基づいて書かれています。
 何故こんなにも長期間に渡って、チキさん自身もうつ病を患っているにも関わらず調査を行ってきたのか。

 学生の頃、出会い系メディアの存在を知ってから、興味本位で数々のそれらを利用してきた。当初から、出会いそのものよりは、観察のほうが目的だった。100近いサイトに登録し、それぞれのサイトの動向などをチェックしたり、地域ごとの違いなどを調べたり、サクラサイトの動向を比べたりしてきた。その情熱の根源をあえてひとつあげるとすれば、やはり、「友人や(元)恋人が見ている光景を共有してみたい」というものになると思う。そこにどんな光景が広がっているのだろう。その疑問が、僕の関心を出会い系メディアへと向けさせた。
 一度、そこでの景色を見てしまってからは、徹底的に調べることが自分への義務になっていた。最初は趣味のようなものだったが、いつしか「知ってしまった者の義務」により、より深く追い、いずれは詳しく書きたいという気持ちに変わった。見過ごされ続けてきた社会問題を記録しなくては、という思いも加わっていった。

 
 この「記録しなくては」ということがなければ、そもそも売春がどのように行われているのかだけでなく、女性たちが何故売春をするのかということも可視化されなかったはずです。
 売春を「個人の問題」と考える人や、「女性は身体を売ればなんとかなる」と言うことを簡単に言う人たちもいますが、チキさんの調査で以下のように明らかになっています。

 水商売であれ風俗であれ、多くの夜職は、昼職以上に高いコミュニケーション能力を求められる。一対一での対人コミュニケーション。至近距離で、ときには裸で、ときには酔っ払いを対象に、全身を使って相手を満足させなくてはならない。口のきき方から、体の隅々まで評価される毎日が続くのだ。
 例えば想像してみてほしい。あなたが不安な気分、意識が朦朧としている状態で、さまざまな年齢・体躯・性格・におい・性癖の異性を相手に、会話や性サービスで満足させる日々を送ることを。ちょっと信じがたいことだが、「女はいざとなればカラダを売ればいいのでラクだ」とのたまう男性は少なからずいる。けれど、夜職は決して「ラク」なものとは言いがたい。 


 男性に対して、「男はいざとなれば肉体労働がある」と言う人がいるでしょうか。
 そもそも、肉体労働があったとしても、性労働のように、目の前の相手を「満足させる」ような一対一の対人コミュニケーションは求められないでしょう。
 そもそもおかしな発言ですが、決して「楽」なものとは言えないということを明らかにしています。

 では、それにも関わらず何故女性たちは売春をするのか(しなければならないのか)。
 湯浅誠の『反貧困』(10年以上前に出版された本ですが、現在の日本の貧困は変わっていないので、必読です)を引用しながら説明している所なのでちょっと長い引用になりますが、チキさんが説明している所を引用してみます。

 学歴と所得、また学歴と就労機会は密接な関係がある。仕事を探したけれど見つからない、あるいは一度退職して以降、再就職が難しいというのは、彼女たちと「教育」との距離が遠かったことと無関係ではない。
 加えて、彼女たちに向けられた社会的な斥力たち。精神疾患などにより、通常の職業で働くことが難しい。生活保護などの存在を知らない、あるいは知っているが、周囲に叩かれるのが怖くて手を出さない。借金を短期で返せるほどの割のいい仕事がない。家族からDVを受けている、彼氏からDVを受けているが故に家に帰れず、ハウジングプアの状態にある。そもそも家族がおらず、天涯孤独である。それぞれのワリキリ女性が感じた斥力、あるいは意図せず味わっている斥力を数えればきりがないが、いずれも貧・病・争といった、「古典的な不幸」の集約がある 。
 湯浅の秀逸な貧困論は、もちろん女性にも当てはまる。ただし多くのワリキリ女性たちの場合、「五重の排除」に加え、さらに「ニ重の追い打ち」が襲いかかる。
 ひとつは「ジェンダーによる排除(という追い打ち)」。一般的に、女性の平均所得は男性の平均所得よりも低く、男性とは就ける職種もまた変わってくる。路上生活をすることは男性以上に危険性を伴い、何とか屋根がある空間を確保しなくてはならない。
 もうひとつは「社会問題からの排除(という追い打ち)」。現在の貧困問題は、「男性が貧困化して初めて慌てだした」という側面があることは否めないだろう。もともと貧困状態にあった女性の問題は、長らく放置されてきたのだ。とりわけ、「売春する女性」の場合、取り締まりの対象として論じられる機会のほうが、福祉の対象として論じられる機会よりも多かった。

 
 僕が中学生・高校生くらいの頃、「援交」(援助交際)という言葉が騒がれました。
 そのときの報道は、お小遣い欲しさに売春をする女子高生、その女子高生たちを補導し更生させなければならないという文脈で語られていました。
 「援交」ということは援助する側の人間がいるにも関わらず、援助を求める側だけに問題があるかのように、しかも、それらの援助が何故彼女たちには必要なのかということを明らかにすることなく、個人をバッシングするだけでした。
 チキさんは「取り締まりの対象として論じられる機会のほうが、福祉の対象として論じられる機会よりも多かった。」とかなり抑えて書いていますが、未だに取り締まりの対象として論じらる機会の方が圧倒的に多いと思います。
(それこそ、このこと(どのように報道されてきたか・報道されているか)を調査するだけで論文が書ける)

 では、女性たちが必要とする「お金」とはどのようなものなのか。
 それもチキさんは調査で明らかにし、さらにそこから二つのある程度の「型」を想定できること、それぞれの「型」について説明しています。

 お金を必要とする、その緊急度合いというものは、グラデーション状に広がっている。(略)
 そこで、売春の動機と経済的事情との関係に着目し、大きくふたつの類型に分けよう。そして、ひとつを「貧困型売春」、そしてもうひとつを「格差型売春」と呼んでおこう。
 「貧困型売春」とは、要するにお金がなく、仕事もなく、人によっては頼れる人も住む場所もない者が、生活に必要なお金を稼ぐために売春を行うというもの。一方の「格差型売春」は、生活には困っておらず、人によっては定職も貯蓄もあるが、「それだけじゃ理想の生活との格差(ギャップ)が埋められない」ために、収入増(お小遣い)を望んで売春を行うというものだ。(略)
 売春を取り巻く言説は、この国が豊かになっていくにつれ、あたかも「貧困型売春」の女性がいなくなり、「格差型売春」=お小遣い稼ぎや「非行型」「享楽型」の女性ばかりになった、といった類いのものであふれている。確かに、そうした売春も一定程度は存在している。しかしこれまで見てきたように、そうした言説の全体化は妥当ではない。
 加えて注意が必要なのは、格差型売春の当事者であれ、何も問題を抱えていないというわけでは必ずしもないということだ。貧困が問題を根深くすることと同根で、幸いにして貧困にまで至っていないが故に、抱えている問題が顕在化していないだけという者もいる。今、紙一重でとどまっているとしても、いつ、その足元が崩れないとも限らない。

 
 売春を行っている女性たちにはある程度の「型」に分けることが出来ること、けれども、あくまでもそれは「傾向」的なもので、その境界が曖昧なことも表しています。
 お小遣いが欲しい、買いたいものがあるからという理由で売春をしていても、そこにはかつて性暴力にあった経験があったり、精神疾患があることもある。
 経済的に余裕があるからこそ、それらの根っこの部分が本人も他者にも見えないことがある、ということです。

 この本はタイトルにあるように「彼女たち」、つまり女性たちへの調査によるものなので、女性たちに焦点を当てていますが、少し、男性たちについても触れられています。
 シングルマザーで売春しているというケースでは、「何故養育費をもらわないのか」という批判が来ますが、父親側の事情にも触れられています。

 離婚した父親が養育費を払わないのは何故か。「そんなの、クズだからに決まってるだろう」と思う人は多いだろう。実際、僕も彼女たちの話を聞くたびに、そうした言葉を吐き捨ててきた。だが、離婚した父親は父親でまた、さまざまな困難を抱えていることも、ひとつの事実として無視できない。
 大石亜希子・千葉大学政経学部教授の指摘によれば、離婚した父親には、いくつかの傾向が見られるという(『シノドスジャーナル』2012年6月25日)。
 まず、離婚した父親は、そもそも初婚年齢が低いこと。傾向として、若い頃の暮らし向きがよくなかったこと。現在の所得も、平均的な所得に比べて低いこと。離婚後、再婚する者のほうが人数的には多いということ。そしてその多くは、新しい家庭で新しい子どもを育てていること。さらに転職率が高く、健康状態もよくないこと。こうした傾向があるために、経済状態が悪く、離婚した母親とその間にもうけた子どもに対して、養育費を払う能力そのものが低いということになる。

 
 個人的にこの「離婚した父親」の「傾向」が自分に重なる部分があって、読んでいて苦しくなりました。
 「そもそも初婚年齢が低」く、「現在の所得も、平均的な所得に比べて低」く、「健康状態もよくない」。

 さて、それと同時に、女性たちを買う男性についても触れられています。

1952年度の調査では、次のような結論が出されていた。

・(買い手の)学歴は売春婦の場合と比べてずっと高い
・職業はサラリーマンが過半数、他は自由業、商工業、労務者などが数名ずついる
・月収は無収入の学生を除けばぱらつきが多く、各階層の者が含まれている
・結婚の状況は、未婚者63.6%、妻帯者31.8%、妻と死別した者4.6%
・家庭の状況は、44名中41名が「円満」

 こうした傾向は、今でもあまり大きくは変わらない。そもそもの結婚率の低下などを含めても、「定職に就き、安定収入があり、決して現状に不満を抱いているわけではない男性」が、「定職がなく、生活が不安定で、お金に困っている女性」をそれなりの金額で買うという図式は、今でも引き継がれている。
 ただし、風俗利用者と比べてワリキリ買春の場合、性体験が若干遅く、また学歴も低いことから、「かつてはいくつかの面で不遇だったが、今では女性を買うことができるようになった男性」という側面が、少し強くなる。

 
 1952年の調査、今から60年以上前70年近く前の調査と「傾向」が「今でもあまり大きくは変わらない」こと自体、驚きつつも、どの時代も買う男性というのは変わらない、つまり「一定の人たち」ということも出来ることに、少し安心感のようなものも感じます(けれど、結局男性たちを型にはめることが困難だとも言える)。

 他にも、出会い喫茶を最初に考え、経営を始めた男性へのインタビューや三浦しをんさんによる解説など、最後まで読むべき、知られるべき内容になっていました。
 このチキさんの調査が今も続いているのかはわかりませんが、どうか荻上チキという個人に負わせるのではなく、国、社会の問題として、調査し、対策へとつなげていって欲しいと切に願います。