村上春樹『猫を棄てる』
先日、仕事が早く終わったので(15時過ぎ)、書店に寄りました。
近所を散歩して初めてわかりましたが、休業ではなく、すでに閉店しているお店があり、これでは本当に困るということで、大きな資本の書店はまだ体力(資金)があるとしても、個人書店はつぶれてしまう、と、いつもなら書店に行っても眺めるだけで、買うのは結局ネットなのですが、久しぶりに書店で本を買いました。
実際に買ったのは2冊(気になって後で電子書籍で買ったのが1冊)で、そのうちの一冊がこの本です。
猫を棄てる 父親について語るとき
『猫を棄てる 父親について語るとき』村上春樹 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS
内容(文藝春秋BOOKSより)
時が忘れさせるものがあり、そして時が呼び起こすものがある
ある夏の日、僕は父親と一緒に猫を海岸に棄てに行った。歴史は過去のものではない。このことはいつか書かなくてはと、長いあいだ思っていた―――村上文学のあるルーツ
勝手に五段階評価
★★★★★
感想
昨年6月号の「文藝春秋」に掲載されたエッセイが単行本になったもので、その時すでに「村上春樹が父親のことを語った」と話題にはなっていたのですが、自分の身にいろいろありすぎたこともあり(調停真っただ中で上司からパワハラ受ける)、読めていませんでした。
ありがちな出来事かもしれませんが、僕が小説を読み始めた大きなきっかけは、村上春樹の作品を読んだからです。
高校1年だったか、2年だったかの時に、初めて村上春樹の作品を読みました(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)。
その世界に圧倒され、母校は図書館が本当に充実していたので、ほとんどすべての村上春樹作品があったので、村上作品を最初から全部読みました。
そして、友人たちが原田宗典にはまって、ずっと原田作品を話している中、「一つでいいから村上春樹の作品を読んでくれ」と言い続けた結果、彼らもハルキスト(死語?)になりました。
そんな出来事から約20年、すっかり本を読む時間もなく、読むとしてもマンガや簡単に読めるようなものばかりで、世界観に深く入ることが必要とされる小説を読む余裕もなく、村上春樹の作品は読んでいるものの、翻訳している作品は積読されてもう何年(というか10年以上?)も経ちました。
で、コロナの影響(というかそれによってピリピリしている人たちと、右往左往する上からの指示)で、忙しかったものの、ようやく訪れたつかの間の時間。
その時寄った書店で目にしたのがこの本です。
村上春樹は1949年生まれなので、僕の両親より少し若いのですが、僕はこの文章を、村上春樹自身かのようにとらえながら読みました。
僕の父は1945年生まれです。
村上春樹のような決定的な出来事はないのですが、僕は父のことをどうしても許すことができないでいます。
具体的なことを書いても仕方ないので書きませんが、今でなら多分児童相談所に通報されるようなことをされていました(というか僕なら通報する)。
まぁ、祖父が明治生まれで、父自身も(わずかだけれども)第二次世界大戦下に生まれたという、その世代が持っている価値観というか、考え方があったのでしょうが、僕にとってはそんなことは許せる理由になろうはずもなく、今も父とは曖昧な関係でいます。
なので、村上春樹が70歳になって、死後何年もしてようやく自身の父親のことを書くことが出来た、というのは、なんというか、僕もまだ父に対するモヤモヤを抱えたままで良いのだ、という気持ちにしてもらえました。
また、この作品の中で多くの人が取り上げるであろうエピソードに、降りられなくなった猫があると思います。
それについて僕がどう捉え、考えたのかは良いとして、ちょうど同じ書店で気になり、あとから電子書籍で買った『あやうく一生懸命生きるところだった』に出てくる、村上春樹作品でのエピソードとリンクしたのがとても興味深かったです。
それがどんなエピソードなのかについてここで触れるのはそれこそ野暮なので、(村上春樹作品としては珍しく)この『猫を棄てる』も電子書籍でも読めるので、是非読んでみてください。