グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』
(コロナ禍で)時間が出来たので、読もうと思っていて積ん読していた本を読むことが出来ました。
最初に目にしたのは、新宿の紀伊國屋書店だったかだと思うのですが、表紙とタイトルに目が奪われ、その時はまだ出版されてすぐだったということもあり、レビューがなかったのですが、それでもパラパラめくってみたら、これは読むべき本だと思い、手に取りました。
男らしさの終焉
内容(フィルムアート社より)
「男」に悩むすべての人へ
男性が変われば世界全体をより良い場所にできるはず
ターナー賞アーティストであり異性装者(トランスヴェスタイト)としても知られるグレイソン・ペリーが、新しい時代のジェンダーとしなやかな男性のあり方を模索する─
勝手に五段階評価
★★★★★
感想
版元のフィルムアート社の紹介文にあるように、この本は「『男』に悩むすべての人へ」向けられた本です。
つまり、「男」に悩む人、ということは、性別や年齢、国籍、出身地に関わることなく、誰もが含まれます。
僕自身は、僕自身が男であることに悩む者でもありますし、悩むことなく、むしろ時にはそれを利用し、けれどもやっぱりうんざりする時もあって、総じて、「男」にめんどくささを感じている者です。
で、何故僕が総じて「男」にめんどくささを感じているのかというと、この本でいうところの、「デフォルトマン」(基準となる男)によって、社会システムやジェンダーロールが構成されているからです。
この本の著者グレイソン・ペリーはイングランドを元に書いているので、割と露骨な階級社会も書いていますが、日本でも「学歴」だったり、「容姿」だったり、あるいは「男らしさ」(あるいは「女々しい」)という言葉に現れるような情緒面で「男」を「デフォルト」(基準)とされる社会設計がされています。
僕自身は日本での「デフォルトマン」と見えるような学歴ですし、今の社会的立場も割とそれに近い部分があるかと思います。
けれど、僕自身はその「男」ということにめんどくささの方を強く感じてきました。
多くの男性にとって、男性的に振る舞うことは、ペニスや睾丸や低い声と同じく確かに生物的なものである。しかし男性性は主に、男性の歴史がつくり出した習慣、伝統、信念の組み合わせである。
この指摘は「多くの男性」だけでなく、「女性」にも当てはまるのではないか、と僕は日々感じています。
今、僕は割と女性の多い職場で働いているのですが、あるとき、職場に来客があったので、飲み物を出すことになったのですが、その時、同僚の女性が「まぁ、男性にそこまで求めないかも知れないけれど」と言いました。
そして、他の場面だったかで、職場に来客があったとき、飲み物を運んだら「うちは男性でもお茶を出すんですよ」と組織のトップ(男)が言ったのでした。
2人の発言ともに、今でも意味が分からないというか、戸惑いしか感じませんし、モヤモヤを感じています。
「男だから求められない」飲み物の出し方?、「男性でもお茶を出す」?、ってことは、標準がお茶を出す=女性の役割ということ?
っていうか、僕を何故「男」だと勝手に判断してるの?
見た目?
ペニスがついてるから?(見られたことないけど)
ホント意味分からなくて悩んでます。
育った家の両親は割とリベラルだとは思いますが、それでも父親はほぼ家事はしないので(母は料理「は」好きだと言っていたけれど)、定年退職し、家にいる父親が口だけ出している姿を見て「言うならお前がやれよ」と毎回うんざりしています。
実際、母親からよく愚痴を聞きます。
が、それらの何もかもめんどうなので、このコロナ禍でより距離を置けて少し楽になっているのですが、職場では相変わらず、僕は「男」として見られている。
まぁ、それはある意味仕方がないことですし、僕もアタイアとしてわざとネクタイをして出勤しているので、それを利用している面もあるのですが、それでもやはり勝手に「男とは~」みたいな「デフォルト」にさらされると、うんざりしてしまいます。
飲み物は誰が出したって良いし、細部まで気づけるのは、その人の性格だったり、たまたまのタイミングだったりする。
女性の方が圧倒的に「男」にうんざりさせられることが多いと思いますが、男性である著者が同じようなことを思っているということは、少なくとも、僕は今まで身近な「男」にはいなかったので、とても勇気づけられるような気がしました。