1月に読んだ本
ちょっと遅くなりましたが、先月読んだ本についてです。
というか12月から続く体調不良で本当に本を読む余裕さえなく、今回は2冊だけになります。
とにかく身も心も何とかしたい、ということをずっと考えていて、身体からのアプローチの他にたどり着いたのがこの本にあるように、【瞑想】です。
まぁ、禅でも、マインドフルネスでも良いのですが、初心者としてどのように行ったら良いのか、ということで探していたら、レビューでダントツに評価され、評価している人の数も多かったこの本を読んでみることにしました。
瞑想のやり方が書いてあり、それらがとてもわかりやすい説明で書かれていたので、この本をさらっと読むだけで瞑想を行うことが出来るようになります。
本の表紙にも書いてあるように15分で良いことや(それ以上やってもむしろ効果はない)、毎日やろうとしなくても良いというようなとにかく【気軽に】始められるように説明されているのが好印象でした。
瞑想と打って変わってもう一冊はこの本です。
僕の中にある差別的な意識にどうすれば良いのか、ということを考えたくて読んでみました。
この本の中にどのようなことが書かれていたのかを説明するのはなかなか難しいのですが、とりあえず、本の章立ては以下のようになっています。
第一章 “差別の日常”という主題
第二章 差別とは何だろうか
第三章 差別した人と差別を受けた人の対話
第四章 差別を学び、目を開く
第五章 性的なからかいに対抗する
第六章 “決めつけ”“思い込み“を崩す
第七章 「差別」を生きる手がかbにする
著者が関わってきた被差別部落に関する記述や身近なところでの女性差別に関する記述も様々な示唆があったのですが、その前に差別とどのように向き合うか、ということの記述がとても良かったです。
例えばこれらの文章です。
誰であれ、どのような場所で生きていようと、差別してしまう可能性がある。私はそう思っている。だからこそ、日常的な自分の語りや振る舞い、他者とのやりとりなどを手がかりとして、さまざまな関係性や状況の中で、いかに差別が生じるきっかげが生まれてしまうのか、それが差別として立ち現れてくるのか、を詳細に見つめようとする姿勢が大切なのである。そして、ここには、差別をめぐり硬直した認識は必要ないし、自分はさまざまな差別問題や人権問題についての詳しい知識を持っていたり、問題への確固たる姿勢を持っているから、差別など間違ってもすることはないのだ、という硬直した認識も必要ない。
差別を考えるうえでの、今一つの基本。それは、差別を受けることの“痛み” への想像力をいかに深め、大きくすることができるか、である。踏まれた痛みは、踏んだ人にはわからないという。それはそのとおりだと私も思う。いくら鋭く広く深く共感できる力を仮に持っていたとしても、差別を受けた人や被差別の現実が受ける“痛み”や“苦悩”は、完全には理解できないだろうし、完全なる共感は不可能だろう。しかし完全なる共感不可能性を十分にわかったうえで、被差別の“痛み”“現実”への想像力をできる限り働かせることは、私たちが差別を考えるうえで、必須の営みなのである。
差別はしたくないと思っていてもしてしまう瞬間があるかもしれない。
なるべくならそれらのことには近づきたくはないのだけれど考えないわけにもいかない。
そういう気持ちをもっている人にどのような心構えでこれらのことを考えて行けばいいのか、を大上段から振りかざすのではなく、一緒に考えて行こう、というような表現で書かれていると感じました。
また、日常のちょっとした場面で差別の場面に出会うことがあります(たとえば女性の容姿を嘲笑したり)。
そういう時に自分自身がやっているかもしれない態度についても鋭い指摘がありました。
それは、端的に言えば、一つは、差別という行為が与える本質的な人間存在への痛みであり、差別を受けた者が「私はこれこれの我慢できない差別を受けた」と主張することの困難さである。今一つは、そんな言葉を受けたくらいで、そこまで怒るのも大人気ない、深刻に考えすぎだよ、といったかたちで、たとえば差別的な発言や言葉をか“からかい”“野次”“冗談”“本気ではない他愛のないこと”などとして処理していこうとする、私たちがあたりまえのように暮らしている日常が持つ力の問題性なのである。
“痛み”を感じた人が「痛い」と言った時、それをした人が「冗談」で済まそうとすることがあります。
周りの人もそれで済まそうとすることも。
その日常が持つ力の問題性の指摘はとても重要だし、自分自身も常に気を付けなければいけない、日常だからこそそういう場面に出会ったときに自分自身がどういう態度を出来るのかが試されるのだと思いました。