映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

「裁きは終りぬ」

 僕は大学の時、キリスト教を学んでいました。
 キリスト教といっても聖書そのものを読み込む、ということではなく、アメリカでは常に政治的に大きなトピックである人工妊娠中絶、安楽死尊厳死、日本での最近の話題だと出生前診断などをキリスト教的にどのように考えるか、ということを学んでいました。
 正解はないものなのですが、そこでは「考え続けること」が求められていました。

 今回の映画も町山智浩さんの『トラウマ映画館』で触れられていた作品なのですが、「考え続けること」を突然突きつけられた人たちが描かれていました。
 70年近く前の作品ですが、この作品で描かれている内容は決して古びることがないテーマだと思います。

 


裁きは終りぬ [DVD]


作品データ映画.comより)
監督アンドレ・カイヤット
原題 Justice est Faite
製作年 1950年
製作国 フランス
配給 東映
上映時間 106分

ストーリー(映画.comより要約)
薬学研究所の所長代理であるエルザ・ルンデンシュタイン(クロード・ノリエ)は、所長であり彼女の情人であったヴォードレモン喉頭癌に苦しむのをみて毒殺したため、安楽死の裁判にかけられることになった。
この法廷に出席を命ぜられた7人の陪審員たち。じゃがいもの植付で頭が一杯な農夫、恋人と結婚したがっているカフェのボーイ、コチコチの退役軍人、1人息子が「障がい」を持つカソリック教会の熱心な信徒で印刷屋の男、ホテルで出会った青年に心を奪われた未亡人の骨董商、ある夫人にのぼせる中年のタイル製品商人、身分の高い馬主で女を作っては捨てる色事師。
さて、開廷の結果、エルザはヴォードレモンのたっての願いにより彼に安楽死の注射を打ったことが判ったが、彼女はそのため巨額の遺産を受取る立場であり、陪審員の1人がのぼせた青年こそ彼女と将来をちぎった恋人であることも判明した。更に彼女は疳の強い外国人で無神論者である。
陪審員の決定はエルザを有罪と宣告する。無罪三、有罪四でエルザは五年の刑を受けることになった。遺産獲得のための殺人なら軽すぎ、自由を犠牲にしても約束を守った安楽致死なら重すぎる。陪審員は良心の命ずるままにこの決定をしたのだが、果してそれは正しかったか。一体人は人を裁けるのか。しかし“裁きは終”ったのである。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 この映画の中心は安楽死をさせたということで裁判の被告になっているエルザではありません。
 エルザがどのような情況で安楽死させたのかということ、遺産の受取人だったことや、殺された男とは愛人関係にあったにも関わらず、恋人がいたことなどが明らかになりますが、この物語の中心はあくまでも選ばれた7人の陪審員たちです。

 伝統的カトリック教会の価値観で判断しようとするけれど、家庭生活においては息子に殺意さえ抱いている者、裁判に関わっている間に雇っている外国人農夫に妻を寝取られた者など。

 なぜ彼らの様子が描かれているのかといえば、エルザが有罪か無罪かという評決に、彼ら陪審員たちの情況が反映されているからです。
 こんなにわかりやすく反映させて良いものなのだろうか、ということを含めて、「人が人を裁くことが出来るのか」「人が人を裁いても良いのか」という根本的な問いを突きつけているのではないかと思います。

 日本での裁判の判決は、裁く側の情況で左右されることはないとか、あるいはこんなにひどくないと思う人もいるかも知れません。
 でも、死刑になるか懲役になるかの判断は未だに明確ではありませんし、最高裁まで裁判を行っても結局多数決です。
 もちろん最もらしい判決文が出ますが、現在でも裁判官は人だということは変わらないので、いかに論理的だろうが、その人の情況に左右されるのです。
(直近の最高裁判決で裁判官の情況で判決が大きく左右されたものとしては、夫婦同姓合憲判決があげられるでしょう。
参照:平成26年(オ)第1023号 損害賠償請求事件

 ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、ベルリン国際映画祭金熊賞ニューヨーク映画批評家協会賞で外国映画賞を受賞していますが、納得の作品内容でした。