映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

斉藤章佳『男が痴漢になる理由』

 以前から気になっていた本だったのですが、電子書籍でも僕にとっては結構高いのでためらっていましたが、読み物だけでなく、Podcastやラジオなど、僕が日常的に接している情報源で取り上げられていたので、手に取ってみました。
 いろんな番組などで言及されていたということも大きな理由なのですが、この本を最初に読みたいと思ったのは、痴漢を含めた性暴力と「支配欲」がどう関係するのか、ということについてです。
 性暴力は相手を支配しようとする目的で、戦争や紛争などでも用いられる手段ですし(最近だと例えば→米国務省、ミャンマー軍がロヒンギャを組織的に迫害と報告 写真7枚 国際ニュース:AFPBB News)、以前ちょっと触れた僕自身が自分自身に感じる「男性性」への嫌悪の正体を明らかにしたいな、と思い読んでみました。

 


男が痴漢になる理由 Kindle版

 
 マークした箇所を上げるとキリがないのですが、この本を読んで一番印象に残ったのは、「痴漢」=そんなに深刻な問題ではないのではないか、と多少なりにも感じてしまっていた自分自身の認識の歪みを気付かせてもらったことです。
 

「人を殺してはいけないよね」といった人に対して、「でも殺人も冤罪事件があるからさ」という人はいないでしょう。(中略)しかし「痴漢をなくそう」というと「それよりも冤罪が」となるのはいったいなぜでしょう。

 
 痴漢は犯罪です。
 当たり前のことですが、それが「ある」ということが「当たり前」かのように考えてしまっている自分自身もいます。
 それはたとえば、鉄道での「人身事故」とも同じようなものかも知れません。
 人身事故だったら、例えばそれによって遅延が発生したりするので、そのときに「誰かが怪我をしているのかもしれない、誰かが亡くなったのかもしれない」と想像するきっかけがありますが、痴漢は目の前でその行為を見たりしない限り、「あるのだろうけれど見えないもの」となります。

 中学生の時に、仲の良かった女の子が他の市に引っ越し、卒業まで半年くらいだったので、電車通学に変わり、そのときに「痴漢に遭う」ということを伝えられたことがあります。
 僕はそのときに「痴漢」というものが自分のすぐ近くあるものだということが初めて分かりました。
 けれどその後、日常的に満員電車に乗る生活を送って来なかったこともあり、(男性も被害に遭うとはいえ)どこか自分とは離れたところにあるような認識でした。


 しかし、この本を読んで改めさせられたのは、日常的に身近で起こっている卑劣な犯罪だということで、それに対して、「あるみたいだね」と放っておくような、自分とは関係がないという認識のままで良いのか、ということです。
 痴漢のデータではありませんし、日本のデータでもないのですが、1人の性犯罪者に対してどのくらいの被害者がいるかが示されていました。
 

アメリカの研究者・エイブルは、ひとりの性犯罪者が生涯に約380人の被害者を出すという調査結果を発表しています。これは強姦や強姦殺人なども含めた数字ですが、痴漢のなかには毎日のように違う女性に加害する者もいるので、人数だけでいうと数年で簡単に上回るでしょう。

 
 また、痴漢の場合、「初犯」(「捕まる」のが初めて)では示談で済むことが圧倒的に多く、裁判になっても執行猶予がつくことが大半であること、そもそも痴漢をされてもそれを周囲に言うことが出来ない被害者が多くいることを考えると、1人の痴漢に対して380人では下らない数の被害者がいるであろうことが指摘されています。
 (中学生だったとき、僕に被害を伝えてくれた女の子のように)被害者にとっては大きな傷を残す卑劣な犯罪行為で、それによる被害者が毎日毎日無数に生み出されている異常さをまずは認識し、そこから対策を考えていかなければならないと思いました。
 これは日本に限らないのですが、性被害に遭うのはあたかも被害に遭った女性の容姿や行動を批判する人(僕が今まで知る限りは皆男性)がいて、その意見はさすがにおかしいとは思っても(性被害ではなぜか被害者が批判される傾向にある)、「痴漢」という性犯罪が日常的に身の回りにあることを、あまりおかしいと思わなくなっていた自分がいました。

 では、なぜ痴漢という行為をするのか、どのような人がするのか、する要因なども詳細に触れられていて、その実態はもしかしたら、多くの人にとっては予想外の内容かも知れません。
 性暴力と支配欲がどう結びつくのかを知りたかった僕にとっては、「やはり」という内容だったのですが、詳しく知りたい人は本を読んでもらうとして、僕にとって興味深かった点をあげてみます。

混雑をきわめた車内では満員電車を構成しているその他大勢のひとりにすぎません。自分が誰か、他者が誰かわからなくなると責任の所在が不明確になり、痴漢にとって非常に魅力的な空間となります。それが「痴漢の発生場所」の過半数を電車内が占めている理由です。


 「自分が誰か、他者が誰かわからなくなると責任の所在が不明確にな(る)」というのは、インターネット上でのヘイトにも当てはまる指摘なので、とても興味深く感じました。
 痴漢がなぜ電車内(特に満員電車)で痴漢行為をするのかというと、誰しもが「その他大勢」になり、責任の所在が不明確になるから。
 インターネットで誰かを攻撃したり、ヘイト行為をするのも、誰しもが「その他大勢」になり、責任の所在が不明確になるからでしょう。
 自分自身が痴漢だけでなく、ヘイト行為をするようなことがないようにする予防として、また、社会においてそれらがなくなるようにするためのヒントがこの指摘にはあると思います。

 僕がこの本を読もうと思ったのは、自分自身の「男性性」に対する嫌悪感からだと書きましたが、その「男性性」とは、もう少し正確に言えば、男性ゆえなのか自分自身でもまだよく分からない、時折目を出す支配欲や征服欲です。
 痴漢をしたいとか、誰かを押し倒したいとかはありませんし、実際にそれをしたりすることはもちろんありませんが、ふと支配欲や征服欲といったものがあらわれる瞬間があって、それの正体を知りたいと思っています。

 それを考えるヒントはいくつもあったのですが、タイトルにあるように、そもそもこの本では「男」を前提にしているが故に、それが「男性」という性によるものなのか、それとも性よりも個人差が大きいものなのか、明確には触れられて折らず、自分の中で少しもやもやが残りました。

 けれど、日本での痴漢、または性犯罪者が圧倒的に「男」が多いことから、個人差よりも性差の方が大きいのかな、とは思いますが、もう少し違う視点からも考えていきたいなと思います。