映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

調停調書(謄本)

 7月末にあった、元配偶者との2回目の調停。 
 3つの争点、内縁関係の解消、子どもたちとの面会交流、財産分与の内、内縁関係の解消と子どもたちとの面会交流は、僕と元配偶者で合意できそうなので、2つのみ合意させ、改めて財産分与の調停を申し立てることを調停委員から提案されました。

 元配偶者が調停委員から伝えられていた宿題をやってこなかったり、2回目の調停までに元配偶者がこう言ってたと調停委員に伝えられていた内容が嘘だと分かり、上申書を提出したりしたことで、調停委員もこれ以上関わりたくなかったのかな、と思います。

 関わりたくない、というか、財産分与に関しては、この調停では合意できそうにない、と判断したのだと思いますが、財産分与だけで調停を申し立てると、調停委員も財産分与に詳しい調停委員になりますし、調停が不成立でも審判に移行するので、僕としても良かったかな、と思っています。

 さて、その2回目の調停で合意した内容についての調書の謄本が、当初担当書記官から言われていた1週間ではなく、2週間近く経ってようやく届きました。

 

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 調書の謄本が届くのが遅れた理由は、僕の名前(姓)が確認できなかったからです。
 担当書記官からある日電話があり、その電話の内容が、「○○さんは戸籍上△△さん(元配偶者の姓)ではないですよね?」とのことでした。
 そもそも、元配偶者と関係との信頼関係が壊滅したのは、この姓に関するもので、僕が元配偶者側の姓に変えたことでした。

 2年前に法律婚をやめ、事実婚になり、自分の姓を取り戻したにも関わらず、ここでもまた姓がまとわりついて来るということに、本当に絶望的な気持ちになりました。
 とりあえず、違う理由で4月に取っていた戸籍謄本を書記官宛に送り、それで確認が出来たのか、調書の謄本が届いたのでした。

 ちなみにこの件が片付いていなかったからか、財産分与の調停について全く連絡がないのかと思います。

「最高の人生のはじめ方」

前回書いた「最高の人生の見つけ方」はこの作品を観ようと思い、もう一度観た作品になります。
この「最高の人生のはじめ方」は観た記憶がなかったのですが、同じようなタイトルで、もしかしたら「最高の人生の見つけ方」と関係があるのかも、ということもあり、「最高の人生の見つけ方」を観たのでした。
結果的に、タイトルが似ているだけで(よく考えてみれば、原題は全く違いました。「最高の人生の見つけ方」="The Bucket List"(棺桶リスト)、「最高の人生のはじめ方」="The Magic of Belle Isle"(ベル島の魔法))、内容は全く関係がありませんでした。
まぁ、観たことある作品だったとしても面白かったので構わないのですが。
 


最高の人生のはじめ方(字幕版)

 
作品データ映画.comより)
監督 ロブ・ライナー
原題 The Magic of Belle Isle
製作年 2012年
製作国 アメリ
上映時間 108分

ストーリーallcinemaより)
有名な小説家モンテ・ワイルドホーンも、今ではアルコールにおぼれ創作意欲を完全に失っていた。孤独な毎日を過ごす彼に、甥のヘンリーは避暑地で夏を過ごすことを提案。モンテは美しい湖畔にあるキャビンを訪れるが、その隣家へ魅力的なシングルマザーのシャーロットが三人の娘を伴ってやってくる。シャーロットたちと徐々に交流を深めるようになるうち、モンテは、自分の中に創作意欲と優しい心が戻ってくるのを感じるのだった。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
日本語タイトルが「最高の人生の見つけ方」と似ているのはなぜなのだろうかと調べたら、監督が「最高の人生の見つけ方」と同じロブ・ライナー、主演もモーガン・フリーマンなので、監督と主演が同じなので配給会社がこのようなタイトルにしたのかも知れません。

物語は、ある夏の間、避暑地(原題のBelle Isle=ベル島)で隣人になる家族の交流です。
離婚係争中でティーンエイジャーから小学校低学年くらいまでの娘3人と一緒の母シャーロットと、かつて人気を得た作品を書いたこともあるけれど、今は筆を絶っている小説家モンテとの交流です。

モンテは車椅子だし、ウィスキーばかり飲んでいて、家から出て街へ行くと思ったら、ウィスキーを買いに行くため、というほど酒浸りで、シャーロットに対しても最初意地悪な態度を取るのですが、不思議と悲壮感や近寄りがたい雰囲気はありません。
それは、多分シャーロット含め大人に対してはちょっと意地悪で横柄な態度を取るけれど、子どもたちには優しいからです。

物語が展開するに連れて、モンテが小説を書いていない理由だけでなく、車椅子生活になるようになった理由や、子どもがいない理由が明らかになっていくのですが、それらが少しずつ明らかになると、なぜ彼が子どもたちに優しくするのかが分かってきます。
単にそれは、子どもという弱い存在だからとか、守らなければならないからとかそういう社会規範的なものではなく、極個人的な意味を持った行為だということが分かります。

酒浸りで、筆を絶ち、ちょっと悪態をついているので、モンテが人生をやり直すというか癒やされるというような点に焦点が当たるかも知れませんが、モンテだけでなく、モンテと出会った隣人であるシャーロット一家、母シャーロット、長女ウィロー、次女フィン、三女フローラの4人も癒やされ、特に子どもたちにとっては始まったばかりの人生を羽ばたかせるために背中を押す出会いだということが描かれています。

僕が良いな、と思ったのはこの点で、決してモンテだけが一方的に癒やされたり、やり直すきっかけになったのではない、ということです。
出会いというのは相手があってのことなので、一方が与えるだけで相手は受け取るだけということはなく、両者がそれぞれ与えつつ受け取っているからです。
この点をこんな堅い言葉を用いることなく描いている点がとても良かったです。

「毒島ゆり子のせきらら日記」

久しぶりにテレビドラマを見ました。
家にテレビがないこともありテレビドラマを見ることはないのですが、先月報道されていた元AKB48の前田敦子さんが結婚するという話題に関して、こんなツイートが流れていました。
 

 

俳優の新井浩文さんのツイートなのですが、気になったのは「毒島」という単語です。
「どくしま?」「どくじま?」と読めなかったので、調べてみたら、「ぶすじま」で、Amazonで無料で観られると共に、レビューの評価がかなり高かったので、ちょっと観てみようと思ったのでした。

 


毒島ゆり子のせきらら日記

 

テッペン!水ドラ!!『毒島ゆり子のせきらら日記』|TBSテレビ

作品データ
放送時間 木曜 0:10 - 0:40(水曜深夜)(30分)
放送期間 2016年4月21日 - 6月23日(10回)
放送国 日本
制作局 TBS
脚本 矢島弘

あらすじ
―第1話(公式サイトより)
あけぼの新聞文化芸能部に勤める毒島ゆり子(前田淳子)は、ある朝彼氏から別れを告げられていた。 突然の話に落ち込むゆり子・・・と思いきやすぐに別の彼氏である幅美登里(渡辺大知)に連絡をとっていた。そう、ゆり子は常に複数の男と関係を持つことを厭わない超恋愛体質女だったのだ。
そんなゆり子は念願だった政治部への異動を告げられる。しかも与党・誠心党の幹事長・黒田田助(片岡鶴太郎)の番記者という、異例の大抜擢だった。ゆり子は政治部への異動、そして他の彼氏に振られたことを美登里に報告する。美登里はゆり子の二股を容認しているのだ。しかもゆり子が二股をやめられない理由も理解しているようだが・・・。
ゆり子の政治部記者としての初日、国会では黒田が番記者たちを引き連れて質問攻めにあっていた。それもそのはず、「黒田が部下を引き連れて誠心党から分党するのでは?」という噂が飛び交っていたからだ。
早速キャップの安斎(近藤芳正)に連れられて黒田番としての仕事を始めるゆり子だが、なかなか他の記者の様に上手くいかない。そんな中、黒田ではなく側近の上神田(山崎銀之丞)に近づく記者がいた。あけぼの新聞のライバル社、共和新聞の小津翔太(新井浩文)だ。ゆり子の先輩記者・夏目(今藤洋子)曰く、 圧倒的なスクープを連発して、他社のみならず政治家たちからも一目置かれる存在だ。既婚者だという小津のことが気になるゆり子だが、彼女には自分に課したルールがあった。二股、三股を掛ける時は必ず相手に伝える。そして不倫はしない。自分を戒めるゆり子だったが・・・。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★☆☆

感想
このドラマで毎回冒頭に表示される言葉があります。

このドラマを恋愛体質のすべての女性たちに捧げる


全十回、最後までこのドラマを観たのですが、毎回表示されるこの「恋愛体質」という表現、しっくり来ませんでした。
主人公ゆり子は基本的に二股三股をしていて、男が尽きることがありません。
確かにそれだけを見ればいつでも恋愛をしているというように見えるのですが、単に男に依存しているだけに見えました。

ゆり子が二股する理由としては、一人の男に裏切られたり、別れを切り出されても、もう一人がいれば傷が浅くて済む、というものなのですが、そのもう一人がいれば、ということ自体が、恋愛体質ではなく、依存なのだと思います。

依存だと思う理由としては、仕事場で出会う、既婚者の小津のくだらない嘘を見抜けない点からも分かります。
恋愛で周りが何も見えない、とかいうレベルではなく、どこからどう見てもくだらない嘘で、その嘘を見抜けないこと自体は恋愛に夢中だからということで理解出来ても、そのくだらない嘘に振り回されないように、ゆり子は複数の男と付き合っていたのではないか、と。

なぜ今まで複数の男と付き合う生き方をしてきたのに、突然小津という年齢が離れた既婚者という、メリットとしては年収くらいの男と簡単に結婚に踏み出せるのか。
ゆり子も小津も新聞社の政治記者
年収も社会的地位も同じくらいの立場です。

それなのに、なぜ、年齢の離れた既婚者と結婚しようとするのか、1話が30分ほどということもあり、深掘りというか二人の関係を丁寧に描けていないのかも知れませんが、理解出来ませんでした。
ラストではようやく男への依存から自立する姿が描かれますが、父親に裏切られたというのなら、なぜ男性不信から、男性とは深く関わらないという方向ではなく、何人も関わるという方向にゆり子が進むことになったのか示して欲しかったです。

最近知られてきた一種のポリアモニーということになのかもしれませんが、そもそも二股だと知らせつつ付き合い始めたとしても、相手の男たちが受け入れていない点で、やっぱりポリアモニーとは言えないのような気もします。

「最高の人生の見つけ方」

Amazonで評価の高い作品を観ているのですが、以前観たことがあるとは思いつつも、また観てみました。
最初の数分でやっぱり観たことあった、と分かったのですが、それでも、冒頭から引き寄せられる物語だったので、そのまま観てみました。

自分の中では高校生や大学生の時に映画を沢山観ていたので、そのときに観ていたと思っていたら、まだ10年くらいしか経っていませんでした。
自分の記憶って全然あてにならないな、と実感しました。

 


最高の人生の見つけ方 (字幕版)

 

【ワーナー公式】映画(ブルーレイ,DVD & 4K UHD/デジタル配信)|最高の人生の見つけ方


作品データ映画.comより)
監督 ロブ・ライナー 
原題 The Bucket List
製作年 2007年
製作国 アメリ
配給 ワーナー・ブラザース映画
上映時間 97分

ストーリー(公式サイトより)
勤勉実直な自動車整備工と、大金持ちの豪腕実業家。出会うはずのない二人が、人生の最後に病院の一室で出会った。家族のために自分の夢を犠牲にして働いてきたカーター、そして、お金だけは腐るほどあるものの見舞い客は秘書だけというエドワード。お互いに人生の期限を言い渡されたという以外、共通点は何もない。そんな二人を結びつけたのは、一枚のリスト――棺おけに入る前にやっておきたいことを書き出した “バケット(ル:棺おけ)・リスト”だった。
「荘厳な景色を見る」「赤の他人に親切にする」「涙が出るほど笑う」……と、カーターは書いた。
「スカイダイビングをする」「ライオン狩りに行く」「世界一の美女にキスをする」……と、エドワードが付け加えた!
そうして始まった二人の生涯最後の冒険旅行。人生でやり残したことを叶えるために。棺おけに後悔を持ち込まないために。そして、最高の人生だったと心の底から微笑むために。
残された時間は6か月。でも、まだ決して遅くない――!

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
物語の流れとしては、性格も境遇も全く違う2人が偶然で会い意気投合→2人でいろんなことをし始める→が、突然の決別→再会し、友情を再確認というもの。
最近の作品でこの流れの物語としては、「最強のふたり」が秀作だと思います。

オーソドックスな物語の展開だとしても、この作品に惹きつけられるのは、なんといっても、ジャック・ニコルソンモーガン・フリーマンの圧倒的な演技力でしょう。
ジャック・ニコルソンは悪態をつきつつもなぜか憎めない、一代で富を築いたワンマン社長を、モーガン・フリーマンは黒人ということや若くして子どもを授かったこともあり勉学を諦めたけれど、知識が人一倍豊富な自動車修理工という役どころを、彼ら以外あり得ないと思わせるほど見事に演じています。

物語の展開としても、最初から2人に死が訪れることが分かっていつつも、やはり最終的には2人に死が訪れるとき、片方が死を迎えるシーンは心揺さぶられるものがありました。
それは、病室から始まった2人の出会いが数ヶ月という短さだからこそ、逆に観客である自分たちも2人と同じ時間を過ごしているかのように感じるからなのではないか、と思います。
100分に満たない作品ですが、そのちょっと短い感じも、この2人の出会いから死までの時間を表しているようにも思います。

内容のほとんどは台詞も結構覚えていたのですが、1つ、こんな台詞あったっけ?と思うシーンがありました。
それは、エドワード(ジャック・ニコルソン)の秘書トーマスにカーター(モーガン・フリーマン)が本名を聞く場面です。
「本当はなんて言う名前なの?」と聞くと、「マシューです。」と答えます。
「(エドワードが)聖書が嫌いなんだそうで」と理由を説明するのですが、「トーマス」(劇中ではトムやトミーと言うことも)も「マシュー」(=マタイ)もキリスト教の聖書に登場する人物(イエスの弟子)なのです。
アメリカの作品でさすがにこのことを知らない訳がないので、本当は何て言っていたかが気になりました(英語部分は聞き取れませんでした)。
本当に字幕通りに答えていたのならジョークなのですが、そうするとカーターが笑ってはいなかったので、ジョークなのかどうかも判断がつきませんでした。

財産分与請求の申し立てへ

7月末にあった2回目の調停で、争点だった内縁関係の解消、子どもたちとの面会について調停委員からの提案もあり、この2つだけ合意させ、財産分与に関しては改めて調停を申し立てることになりました。

調停後に書記官から言われていた家庭裁判所内にある家事手続案内に行きました。
調停で3つの争点の内2つを合意し、財産分与を改めて申し立てることになったことを説明し、申し立てに必要な書類や提出方法を教えてもらいました。

裁判所|東京家庭裁判所家事手続案内


この案内に行って良かったのは、前回は裁判所のホームページから印刷したものに記入し提出しましたが、財産分与の書類はかなり多く、複写式の書類一冊を渡してもらえたことと、申し立ては郵送でも可能だということを教えてもらえたことです。

相手方の居住地にある家庭裁判所に申し立てるので、僕の今の住んでいるところから東京家庭裁判所に提出に行くのはかなり交通費も時間もかかるので、郵送が可能だということはとてもありがたい情報でした。

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さて、この財産分与請求、これまでの調停でも元配偶者と主張が平行線をたどっています。

僕が求めているのは、法律婚事実婚(内縁関係)をしていた12年間で形成された夫婦の財産を2分割する、ということです。
しかし、元配偶者は僕にはそんな権利、財産分与を請求する権利はなく、まるで僕が金の亡者かのように、貶める発言と主張を繰り返してきました。

元配偶者は東京六大学の系列である私立中高で社会科の教員をしているのですが、僕に財産分与を請求する権利がないかのように、しかも、二分割など馬鹿げたことを、というような発言をしていることに、暗澹たる気持ちになっています。

元配偶者の仕事に関連し、例えば、こんなことを言っている人がいたらどうでしょうか。
子どもが「教育を受けたい」、「自分には教育を受ける権利があるはずだ」と主張したとします。
そのとき、保護者や周りの人が、「そんなに勉強がしたいのか!?」、「そんな権利あるわけないじゃないか、図書館で本でも読んでろ」と言い、権利などないと言ったり、十分に教育を受けさせなかったらどうなるでしょうか。

元配偶者の主張はこのような考え方で、遺産や夫婦生活とは関係がないことが明らな行為で得た財産ではない限り二分割することが当然であるし、それを請求する権利が僕にあるにも関わらず、そんな権利はなく、請求すること自体を「金に執着している」と貶める主張をしているのです。

他のどんな基本的人権でも構いません。
自分には生きる権利があって、生きていたいと言う人に、そんな権利はない、そんなに生きたいのか?と言うでしょうか。
というか、そんなことを言う人がいたら、逆にそんなことを言う人の見識を疑うでしょう。

元配偶者は社会科の教員と言っても専門は地理ですし、好きな分野も歴史なので、公民分野、倫理など門外漢だということなのかも知れませんが、まさかこんな、僕からすれば馬鹿げた主張をする人と結婚していたのかと、自分自身の人を見る目のなさに絶望を感じずにはいられません。

ちなみに、今回の財産分与の申し立ては、既に調停をした経緯もあることや、ここまで財産分与に関しての基本的な考えが違うこともあり、調停ではなく、審判にしました。
審判は、裁判官が当事者から提出された書類や家庭裁判所調査官が行った調査の結果等種々の資料に基づいて判断し決定するもので(参照:裁判所|審判手続一般)、裁判官が判断したものであれば、元配偶者も受け入れない可能性は調停よりも低くなるのではないかと考えたからです。

「アンチクライスト」

 突然の引っ越し(というか追い出された)だったので、通っていた教会からも遠くなってしまいました。
 今住んでいる所の割と近く、一駅のところにもあるのですが、その教会の牧師はちょっと訳ありだったり、以前は自転車で行ける距離にあった教会に通っていたので、一駅でも遠い感覚がしてしまい、結局教会から疎遠になってしまいました。

 Amazonで新しく無料で観られる作品が増えていないか見ていたら、オススメとして表示された作品が「アンチクライスト」=反キリストというものだったので、観てみることにしました。
 


アンチクライスト(字幕版)

 

作品データ映画.comより)
監督・脚本ラース・フォン・トリアー
原題 Antichrist
製作年 2009年
製作国 デンマーク・ドイツ・フランス・スウェーデン・イタリア・ポーランド合作
配給 キングレコード、iae
上映時間 104分
映倫区分 R18+

あらすじシネマトゥデイより)
 愛し合っている最中に息子を事故で失った妻(シャルロット・ゲンズブール)は罪悪感から精神を病んでしまい、セラピストの夫(ウィレム・デフォー)は妻を何とかしようと森の中にあるエデンと呼ぶ山小屋に連れて行って治療を試みるが、事態はますます悪化していき……。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★☆☆

感想
 この作品「アンチクライスト」の監督ラース・フォン・トリアーは日本ではビョークが主演した「ダンサー・イン・ザ・ダーク」が一番有名なのではないかと思います。
 僕も「ダンサー・イン・ザ・ダーク」も好きな映画ではあるのですが、強烈な印象を持っているのは、「ニンフォマニアック」です。

 「ニンフォマニアック」はニンフォマニア=色情症を自認する女性ジョーの幼少期から50歳までの生=性をめぐる旅路を追う物語です。
 日本でも劇場公開されたものの、セックスシーンも多いので、この作品も日本独自のモザイクがかかっています。
 モザイクがあるだけで興ざめしてしまうので、僕は輸入盤で観てみました。
 (ちなみに、僕の机の後ろにあった本棚にDVDを置いておいたら、元配偶者がAVだとでも思ったのか、過剰に反応していました。
 そういえば、あの人は「性」をタブー視していたので、その辺の感覚も自分とは結構すれ違っていたな、と思います。)

 さて、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、「ニンフォマニアック」と同じくラース・フォン・トリアー監督作品なのですが、何が「アンチクライスト」=反キリストなのか。
 それは、直接的にキリスト教の考えだったり、教会というものが出てくるわけではないのですが、主に中世での魔女、また、近世における、女性のヒステリーが主題になっています。

 かつて(今も?)広く行われていた魔女狩りでの魔女、あるいはヒステリーと呼ばれるものは、一説では女性の性欲を過剰に抑圧した結果、女性に現れた行動を周囲の人たちが魔女やヒステリーと考えたとされています。

 この「性の抑圧」がこの物語の中心テーマになっています。
 「ニンフォマニアック」ではこの「性の抑圧」に関して、徹底的に「性の解放」を描いていますが、この「アンチクライスト」では「アンチクライスト」というタイトルにも関わらず、徹底的に「性の抑圧」が行われます。

 セックスをしている最中に息子が事故死してしまうことから、セックスを否定的に捉えることから始まり、夫にセックスを求めると、夫は「自分はセラピストだから。セラピストとセックスしてはいけない」と拒否されます。

 夫は徐々に妻とのセックスを受け入れていくのですが、途中、夫婦の会話で「フロイトは死んだ」という場面があります。
 ニーチェが言った「神は死んだ」ということになぞらえたものですが、「フロイトは死んだ」ということはつまり、「ヒステリーの原因は抑圧された性欲である」というフロイトの考え方が死んだ=女性の性欲が解放される、ということを示唆しています。

 しかし、二人がそのような会話を交わしたにもかかわらず、結局夫は解放された妻=女性の性を受け入れることは出来ず、これ以上ない形で抑圧します。
 最終的に「アンチクライスト」というタイトルではあるものの、キリスト教的価値観から解放されなかった、現代でもその価値観がはびこっているということを示唆しているように思います。

 レビューの中には、これは「女性嫌悪ミソジニー)」の最たるもの、というようなものもありましたが、僕としては、結局現代においても、女性の性や性欲を抑圧しようとしている現実がある、ということを示しているのではないか、と思いました。

好きなことより嫌だと思うことを大切に

先日、こんなツイートを目にしました。
 

 
夫婦円満の秘訣は?と聞かれた際に考えたのが、

我々の場合 好きなことよりも「嫌いなことを共有する」からうまくいくのかも知れない

 

という答えだったそうです。

この「好きなことよりも嫌いなことを共有する」ということ、本当にその通りだと思いました。
僕と元配偶者がうまくいかなかったのは、まさにこれ、つまり僕が「イヤだ」と言っていることを元配偶者が無視し続け、軽んじたということがあります。

具体的には、結婚当初から僕が元配偶者の姓を変えたことになるのですが、僕が結婚してからの12年間で何度「元の姓に戻したい」(今のままじゃイヤだ)と訴えても元配偶者は受け入れず、受け入れないどころか、「なんなら自分が姓を変えても良かった」とか「姓を変えることは○○(僕)が受け入れたこと」と僕を軽んじる発言を繰り返してきました。

姓を変えるという大きなことでなくても、例えば誰かと一緒に生活することになったとき、「おしっこが飛び散るから座ってして欲しい」とか主に女性が男性に求めることがあると思います。
それも1つの「イヤなこと」です。
この「イヤだ」と言っていることに対し、「分かった。今度から座ってするね」と応えるか、「今まで立ったままやってたから座るなんて」と応えるか。

「小さなこと」と考えるかも知れませんが、自分が「イヤだ」と言ったにも関わらず相手が無視し続けるとどうなるかというと、イヤなことにさらされ続けるので、ずっと自分が傷つく訳です。
自分がずっと傷つけられるとどうなるか。
自分は傷つけられても良いようなどうでも良い存在だと自分のことを否定するようになるか、あるいは相手も自分を傷つけているのだから相手を傷つけようとするか、その両方をするようになります。

だから、誰かと親密な関係になるとき、最初は共通点、つまり「好きなこと」が一緒だと親しみを感じて親密になるかと思いますが、一緒に暮らす、一緒に生きていくということを考えるときには「好きなこと」よりも「嫌いなこと」「イヤなこと」を共有できるかが一番重要なのだと思います。

結婚してから、褒めたり感謝することが大切です、というようなことも聞きますが、僕は自分が作った料理を「おいしい」と言われた場合、「おいしいと言ってくれたから、また作ってあげよう」とは思っても、自分が褒められた気分には特になりませんでした。
それよりも、「結局乾かないから洗ったばかりの食器を重ねないで欲しい」というような僕からの「イヤだ」というメッセージをちゃんと受け取って欲しかったです。

相手を変えることは出来ないので、元配偶者と結婚する際に最初にちゃんとこの点を見極めていれば良かったと思いますが、その過去はどうすることも出来ないので、もし、これから誰かと一緒に暮らすことになったら、自分は相手からの「イヤだ」というメッセージをちゃんと受け止めていこうと思いました。