映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

「アルフィー」

 東京医大の入試で女性受験者や浪人生が減点されていたことが報道され、これまで沢山の差別にあってきた人たちが沢山の声を上げていました。
 これほど卑劣なことは聞いたことがありませんが、僕にとって忘れられない出来事があります。

 それは、僕は主夫だったので子どもたちが小さな時から一緒に出かけていましたが、子どもたちがぐずったりしても文句を言われたことはありませんでした。
 しかし、元配偶者と子どもたちと一緒に出かけた際、電車の中でしりとりをしていたら、近くに座っていた中年男性が元配偶者に「うるさい」「子どもたちをなんとかしろ」というようなことを言ったのです。
 もちろん大声でやっていたわけではないですし、静かに移動したいならタクシーにでも乗れば良いと思うのですが、それよりも、ほとんど子どもたちと外出しない元配偶者が文句を言われ、毎日のように一緒にいる僕が今まで一度もこういう目に遭ったことがない、ということが衝撃的でした。

 これは、「差別」というような出来事ではないかも知れません。
 けれど、中年男性が元配偶者に文句を言ったのは、元配偶者が女性だからということは明らかです。
 男性は女性よりもなぜか上にいて、男性には言えないことも女性や子どもには平気で言える。
 本人たちが意識的に区別しているわけではないだろうことに、余計深刻だと感じています。

 さて、今回の映画、まさに女性を軽視している男の物語です。
 


アルフィー (字幕版)

 
作品データ映画.comより)
監督 ルイス・ギルバート
原題 Alfie
製作年 1966年
製作国 イギリス
配給 パラマウント

ストーリー(映画.comより)
アルフィー(M・ケイン)は、ロンドンのイースト・エンドの汚ないアパートに住んでいたが、身なりだけは素晴らしく、スキがなかった。それというのも彼は女性が好きで、女性の好みにしたがって身なりをかえたり、それにふさわしい態度をとる習慣が出来上っていたからだ。最初に征服したのはシディ(M・マーティン)であった。次がギルダ、彼女が結婚した時にはショックだった。そのショックがぬけきらない時、アルフィーは自分の肺が結核におかされていることを知った。療養生活はありがたくなかった。だが担当の女医は美しかったし、看護婦にもかわいこちゃんが大勢いたから楽しかった。退院したアルフィーはある日、となりのベッドにいたハリーを見舞った。そこには欲求不満顔の彼の妻リリーが来ていた。そしてアルフイーは早速モーションをかけるのだった。アルフィーは転々と職をかえた。その間、彼は金持の女ルビー(S・ウィンタース)や、アニーという娘を知ったが、楽観的な彼の予想とは逆に、ルビーはしばらくするとアルフィーより若いギタリストを見つけていたし、アニーはボーイフレンドに連れ去られてしまった。いったい俺の魅力はどうなったのだろう。こんなことは今までになかったことだ。と考えるアルフィーの目の前にシディが現われた。最初の女だ。そしてたちまちデートの約束が出来上った。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 個人的にこの世の中で不思議だなと思うことの1つに、「クズ」な男に惹かれる女性がいたり、「クズ」が女性たちにモテるということがあります。
 この作品の主人公アルフィーはモテ、出会う女性たちと次々に関係を持ちます。
 今から50年以上前だとしても女性軽視も甚だしく、相手の女性が妊娠したと分かれば中絶を促し、「縛られたくない」と家に帰る時間も、出かける場所も、食事がいるかも答えず、逆に女性を叱責します。

 お金持ちという訳でもなく、なぜアルフィーがモテるのか、女性たちは何を彼に求めているのかよく分からないのですが、1つアルフィーの良いところをあげるとすれば、若い女性から年増の寡婦まで、女性を選り好みしない、というところです。

 最後に描かれる展開は本当に衝撃的で救いのない絶望的な場面です。
 その場面で初めてアルフィーは涙を見せます。
 そして、すべての女性が去って行ったあと、彼は最後にこう語りました。

彼女たちがしてくれたことをすべて思い起こすと、おれは幸せ者に見える。
得たものは?
数シリング、イキな服を数着、車
健康も取り戻し、自由な身だ。
だが心の安らぎがない
何もないのと一緒だ
片方が手に入れば
もう一方が入らない
何が答えだ?
いつも自問する
人生とは
わかるか?

 
 ラストにかけて絶望的な展開になりますが、このアルフィーの言葉が唯一の救いであるように思いました。
 今まで、次々に女性たちと関係を持ち、その女性たちを軽視しひどい扱いをしてきたとき、いつも彼は笑顔でした。
 アルフィーはそれを楽しんでいたし、後悔することもなく、自分のやっていることに疑問も感じていないのではないか。

 最初に書いた電車での中年男性のように、自分がやっていることを分かっていないということが一番絶望的なことだと思うのですが、アルフィーは最後に自分のやっていることに問いかけています。
 これはこの作品で描かれるひどい展開の中で、救いのあるラストだと感じました。

知らされなかった訃報

 初めての子どもたちとの面会時に娘が、以前一人でお泊まりした僕の実家にまたお泊まりしたい、と言っていたので、元配偶者に伝えたところ、この夏に2回僕の実家に娘がお泊まりすることになりました。

 元配偶者が娘に確認したところ、娘の希望としては僕の実家に泊まるということが一番の希望ではなく、僕と一緒に過ごすということが第一希望ということででした。
 娘の希望に添うように仕事が入らないように調整し、当日は娘の習い事を4ヶ月ぶりに見に行き(3月迄は3年間僕が毎回送っていました)、お家まで送って習い事の道具を置き、娘のお泊まりの荷物を持って実家に向かい、一緒にお泊まりしました。

 娘のお迎えと実家へ向かう中で、娘がずーっとおしゃべりをしていたのですが、そのときに衝撃的な話を聞きました。
 それは、娘の「ひいおばあちゃん」、つまり元配偶者のおばあさまが亡くなった、という話です。
 

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 娘が生まれた時には、ひいおばあちゃんは2人いて、僕の祖母と元配偶者の祖母で、最初僕は僕の祖母が亡くなった話をしているのかと思ったのですが、よく聞いていると元配偶者のおばあさまの話でした。

 いきなり納骨の話を娘から聞きびっくりしたので、いろいろ娘に聞いてみると、6月くらいにひいおばあちゃんは亡くなり、この娘との話をしていた日のちょっと前に納骨があったということが分かりました。
 娘は7歳になったばかり、小学一年生なので、それ以上の詳細はよく分からなかったのですが、とにかく、何回もお会いし、結婚した当初僕が学生だったので「学生さんは大変だから」とお年玉をくれたり、特別養護老人ホームに入所するまで挨拶に行っていた新年には毎回、僕が好きだと言っていたからとお寿司の出前を取ってくださっていました。

 あとから面会した長男と次男に詳しく聞いたところ、おばあさまが亡くなったのは6月6日で、納骨に長男が来なかったと娘が言っていたのは、長男が小学校の臨海学校でいなかったからだということが分かりました。

 6月6日はまだ、元配偶者と僕との内縁関係(事実婚)解消の合意が成立していなかった時期です。
 もちろん、元配偶者が僕とは会いたくない、僕に葬儀に来て欲しくないという気持ちは分かります。

 けれど、「全く知らせない」、後日、子どもたちから漏れ伝わる、という元配偶者の対応には、おばあさまの死そのものと同じくらい衝撃的でした。

 会いたくない、ということであれば、「葬儀には来て欲しくないが、お知らせしておきます。」と前置きした上で伝えることは出来るでしょう。
 葬儀に来て欲しくない、お悔やみを伝えられたり、香典も渡されたくない、ということであれば、それを伝えれば良いと思いますが、「死」そのものを伝えない、ということは、僕にとっては「あり得ない」対応でした。

 おばあさまの死を知ったときには既に内縁関係解消の合意がされたあとだったので、やはり元配偶者と一緒に生きていくことは無理だったのだと確認された出来事ではありましたが、なんというか、本当に哀しい気持ちになる出来事でした。

「チェイシング・エイミー」

 この夏人気ブロガーと人気AV男優が結婚(事実婚)を発表し話題になっていました。

人気ブロガーはあちゅうがAV男優のしみけんと結婚を発表 - 芸能社会 - SANSPO.COM(サンスポ)

 会ったこともない人たちが結婚して特に何か僕が言うことはないのですが、この話題で興味を引いたのは、男性側が数千本ものAVに出演している=何千人もの人とセックスしたことのある人であり、なおかつ結婚したということで男性側(しみけん)には羨望などの反応があった一方、女性側(はあちゅう)に対しては、侮蔑の反応が沢山見られたことです。
 はあちゅうという人がネット上で会ったり対話したこともない人を一方的に批判したり、その一方で批判していた方が殺された時には手のひらを返すような反応をしたり、と一貫性がなかったりすることで、元々批判されていたのですが、結婚を発表しただけで侮蔑の言葉が投げつけられる、という異常な状態に見えました。

 さて、今回観た映画は、この男性は女性に「処女性」を求める一方、男性自身は沢山経験することに価値を置く、ということに絡んだ映画です。

 


チェイシング・エイミー (字幕版)


作品データ映画.comより)
監督 ケビン・スミス
原題 Chasing Amy
製作年 1997年
製作国 アメリ
配給 エース ピクチャーズ
上映時間 114分

ストーリー(映画.comより)
無二の親友同士のホールデンベン・アフレック)とバンキー(ジェイソン・リー)は共作したコミックが人気を呼んで、マンハッタン・コミック・フェアに招かれた。会場内でゲイの黒人漫画家フーパー(ドワイト・ユエル)からレズビアンの女性漫画家アリッサ(ジョーイ・ローレン・アダムス)を紹介される。ホールデンは彼女に一目惚れ。あっけらかんと女同士のセックスについて語るアリッサと奥手なホールデンは友達になった。ある晩、ホールデンは思わずアリッサに愛を告白する。一度は拒絶するが、とうとうホールデンを受け入れた。ひとり取り残されたバンキー。彼はゲイで、秘かにホールデンのことを愛していた。嫉妬にかられたバンキーはアリッサが学生時代、誰とでも寝る女だったということをホールデンに教えた。たまらず探りを入れたホールデンに、怒ったアリッサは大声でセックス・クイーンだっことをぶちまける。しばらくして、ホールデンはバンキーとアリッサを呼んで新しい3人の関係を提案した。アリッサのことは今も愛している。そして、実はバンキーが自分に惚れていることも……。何週間も悩んで考えた唯一の解決方法は、3人でセックスすることだった。バンキーは嫌々OKするが、アリッサは傷ついた。1年後のコミック・フェア、独立して売れっ子になったバンキーにホールデンが会いに来た。そして、隣のアリッサのブースの前に自作『エイミーを追いかけて』を置く。それはふたりの体験を描いた作品だった。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 もともと奥手だった男が一人の女性に出会って恋をする。
 相手の女性はレズビアンで恋人もいるのだけれど、彼の好意を知っているのかわざとはぐらかしているのか、友だちになろうと言ってくる。
 最初は彼女と一緒に過ごせるだけで十分だと思っていた彼だが、会うたびに彼女への気持ちは膨らむ一方で、彼女に思いを伝える。
 断られたかと思ったが、彼女は彼の気持ちを受け入れてくれて、ついに結ばれる…。

 と、ここで終わればハッピーエンドですが、彼の親友であり、仕事上のパートナーでもある(実は彼のことを恋しているが告白出来ないでいる)彼の友だちが、彼を奪われたと思い、彼女の過去を彼にぶちまける。
 彼女の過去とは、レズビアンどころか、高校生の時にはだれのペニスでも差し出されればしゃぶるということで有名だったこと、男2人のペニスを同時にしゃぶったこともあるということ。

 レズビアンだったから、処女だと思っていた彼には衝撃的で、彼女の男性経験は自分が初めてで、女性経験の乏しい自分でも彼女をリード出来ていると思っていた彼は彼女の過去を受け入れることが出来ない。

 でも、なんとか受け入れようとし、彼と彼女、そして彼の親友(本人は隠しているつもりだけれど、彼に恋している)の3人でセックスしようと提案する。
 それは、彼にとっても、彼女にとっても初めての経験になるし、親友の秘められた思いにも応えることが出来る。

 彼にとっては、彼女の優位には立てなくても、対等な関係を築くための提案だったのだけれど、彼女にとっては、他の好きでもない男とセックスすることになり、とても受け入れられず、そんな提案を本気でしてくる彼との決別を決める。

 この作品を観て、オスカー・ワイルドの言葉を思い出しました。

男は女の最初の恋人になりたがるが、女は男の最後の恋人になりたがる。

 
 男がなぜ女性に処女性を求めるのかいうと、支配したいとか、独占したいとか、優位に立ちたいとかそういうことなのだろうと思います。
 だから、過去の経験を知りたいと思うし、それを聞くことで嫉妬に駆られるとしても、自分が今支配している、独占している、ということを確認したいのだと思います。

 もちろん、そんな支配欲だとか、独占欲だとかを露骨に表す人ばかりではないものの、やはり心のどこかでは気になってしまう、という、そのどうしようもなさ、がこの作品では描かれていました。
 そして、そんな男の気持ちが理解出来ず、自分は今目の前にいる彼のことしか見ていないにも関わらず、なぜ彼は分かってくれないのか、という女性の気持ちも。
その男と女のすれ違いがとてもバランス良く描かれていた作品だと思います。

「インクレディブル・ファミリー」

子どもたちとの2回目の面会だった「未来のミライ」を次男と娘との3人で観に行った際、 次男と長女から要望されていた「インクレディブル・ファミリー」を今度は長男も含めた4人で観に行きました。

観に行ったのは8月上旬で、子どもたちが暮らす家と僕の実家の中間くらいにある大型スーパーに併設されている映画館です。
その映画館を選んだ理由は、僕の実家から子どもたちの家までの間にある、車で行ける映画館だったからです。
電車だと中間点よりは、都心に行った方が便利な場所に映画館があるのですが、都心に行ってから戻るよりはと、子どもたちにとっても移動の負担が少ない車で、その映画館を選びました。
ちなみに、僕は実家で生活していた大学生の時(10数年前)に行った以来でした。

 

youtu.be


インクレディブル・ファミリー|映画|ディズニー公式

作品データ映画.comより)
監督 ブラッド・バード
原題 Incredibles 2
製作年 2018年
製作国 アメリ
配給 ディズニー
上映時間 118分
映倫区分 G

ストーリー(公式サイトより)
 悪と戦い、人々を守ってきたヒーローたち。だが、その驚異的なパワーに非難の声が高まり、彼らはその活動を禁じられていた------。
 そんなある日、かつてヒーロー界のスターだったボブとその家族のもとに、復活をかけたミッションが舞い込む。だがミッションを任されたのは――なんと妻のヘレンだった!留守を預かることになった伝説の元ヒーロー、ボブは、慣れない家事・育児に悪戦苦闘。しかも、赤ちゃんジャック・ジャックの驚きのスーパーパワーが覚醒し・・・。
 一方、ミッション遂行中のヘレンは“ある事件”と遭遇する。そこには、全世界を恐怖に陥れる陰謀が!ヘレンの身にも危険が迫る!果たして、ボブたちヒーロー家族と世界の運命は!?

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想 
子どもたちと一緒に暮らしていた時は、いつも朝一番の上映時間に観て、昼食を取ってから帰る、というパターンで映画を観ていたのですが、今回は先に僕と長女がお泊まりしていた僕の実家に、長男と次男が来てから映画館に向かう、という流れだったので、お昼過ぎの上映時間でした。
いつも行っていたTOHO系とは違い、上映時間の10分前に入場開始ということで、チケット売り場に入場を待つ人たちがかなり溜まっていましたが、そのほとんどが家族連れでした。

休日のお昼過ぎ、大型スーパーに併設された映画館で、映画も公開されたばかりだったので、席はほぼ満席でした。
ほぼ満席で、家族連れが多かったので、映画上映中、笑ったり、クスクスしていても良い雰囲気だったのはとても良かったです。
シリアスな映画ならまだしも、コメディやファミリー向けの映画でも、客層によっては笑うこともはばかれるような雰囲気があるときもありますが、今回は気にせずに笑ったり出来たのは子どもたちにも良かったように思います。

映画の内容ですが、まず最初に「Bao」という短編が上映されたあとに、本編「インクレディブル・ファミリー」が始まりました。

前作の「ミスター・インクレディブル」の内容はほとんど忘れてしまったのですが、今回の作品では、ミスター・インクレディブルであるボブを父親として、その妻はイラスティガールことヘレン、長女にヴァイオレット、長男にダッシュ、赤ん坊にジャック・ジャックという5人家族の姿が描かれています。
ファミリーの物語ですし、最後まで観ると確かに家族が助け合っているとも見えるので、家族の絆の物語と理解することも出来るかと思います。
しかし、僕としては、これは「家族」ということで社会だったり、他の家族だったりから直接、非直接的に要求されている、家族の中の役割に抗う物語だと思いました。

たとえば、今回の映画では、ボブが家事・育児をこなし、ヘレンがイラスティガールとして活躍します。
ボブは自分は家の外、つまりヒーローのミスター・インクレディブルとして働くことを望み、でも、家事・育児もやれると思っている。
だけど、ボブが思っているほど家事・育児を出来ず、子どもたちのケアも十分に出来ない現実に直面する。

ヘレンは特に小さいジャック・ジャックのことを気にかけつつも、イラスティガールとして活躍出来たこと、つまり家の外で働け、評価されることに自信を深めていく。

女性は家事・育児をすべきもの、たとえ家の外で働くとしても家事・育児を主体的にこなすのは女性である、あるいは、男性は家の外で働き、活躍することが第一で、外で働き、活躍しつつ家族をも大切にするということが必要だ、というようなジェンダーをシリアスに悩んだりするのではなく、ボブが家事・育児で眠れないでどんどんやつれていくというようなユーモラスな姿を通して、観客である子どもたちにも伝えているのではないかと感じました。

また、ジェンダーを軽やかに描いていることも良かったのですが、赤ん坊であるジャック・ジャックの姿もとても良かったです。
最初は、ヒーロー活動をする際には「お荷物」で、その世話をなすりつけ合い、ジャック・ジャックといたから自分が活躍できなかったように他の家族が振る舞ったりしますが、実はジャック・ジャックといることで思わぬ力が発揮されたり、予想外の展開が起きる。

ヒーローの話ではなく、現実の家族に置き換えたとしても、赤ちゃんは何も出来なかったり、世話のかかる「お荷物」ではなく、いろんな可能性を持っているいるし、周りの人とであらたな才能が発揮されたり、予想外の展開を招いてくれる。
例えば、赤ん坊が生まれたことで、料理にはまるようになる人もいるでしょうし、赤ちゃんを通して今まで出会うことがないような人と出会うこともあるでしょう。
赤ん坊というのは、決して「お荷物」ではなく、そういう可能性を沢山与えてくれる存在なのだ、という赤ん坊を肯定するまなざしがとても良かったです。

「ジェラシー」

今回も、町山智浩さんの『トラウマ恋愛映画入門』で紹介されていた作品になります。



ジェラシー [DVD]


作品データ映画.comより)
監督 ニコラス・ローグ
原題 Bad Timing
製作年 1979年
製作国 イギリス
配給 日本ヘラルド映画

ストーリー(映画.comより)
夜の街に救急車のサイレンが響く。若い女が自殺を計ったのだ。彼女の名はミレーナ(テレサ・ラッセル)。彼女につき添うのは精神分析医学の教授アレックス(アート・ガーファンクル)。二人が知り合ったのは、とあるパーティだった。挑発的なミレーナの態度に無表情に応えるアレックスに、その時からミレーナは積極的だった。それ以後二人の仲は急速に進展し、部屋であるいは、クリムトなどの絵が展示されたベルベーレ宮で、デートは続いた。しかし、結婚をせまるアレックスの態度に、ミレーナは同調せず、他の男と出歩いたりする始末だった。そんなころ、アレックスはミレーナについて意外な事実を知った。彼女にはチェコに住むステファン(デンホルム・エリオット)という初老の夫がいたのだ。そして数カ月前にそのステファンとは別居している。アレックスは、そのことを、時おり仕事を手伝っているウィーンのアメリカ情報部で知ったのだが、さらに詳しいことを調査するためチェコ大使館に行った。そこで何の収穫も得られなかった彼は、ミレーナに離婚を迫る。やがて、何度かの入れ違いが生じ、二人の間に不安定な状祝が続いた。そして彼女は遂に自殺という手段をとる。その夜、彼女は泥酔状態でアレックスに電話をかけ、彼を呼び出していた。彼はミレーナの電話での様子から彼女の死を予感していたが、酒場などで時間をつぶし彼女の家についたのは二時間以上も時間が経ってからだった。無意識状態のミレーナを犯すと彼女の下着を切り裂いた。それから救急車を呼ぶアレックス。病院で彼は警部(ハーヴェイ・カイテル)の尋問を受ける。警部はアレックスに不審をもち問いつめる。アレックスが混乱している頃、ミレーナが命を取りとめたという知らせが入った。それから一年ほどたったある日、ニューヨークの街で二人は偶然すれ連うのだった。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
僕の父親はテレビで音楽番組が流れると、あからさまに嫌悪感を示すような歌謡曲に全く興味を示さず、偏見を持っている人間なのですが、母親はその年代には定番のビートルズはじめ、サイモンとガーファンクルなどいろんな外国の音楽を僕が小さい頃に教えてくれました。

僕にとっては、初めて聞いた外国の音楽グループの一つであるサイモンとガーファンクルなのですが、そのガーファンクルが俳優をしていたことは知りませんでした。
この作品では、アート・ガーファンクルが主演しています。 

物語としては、「愛」を求める若い女性と、愛しているはずの年上男性とのお互いの「愛」がすれ違う様子を描いています。

この作品を観終わり、一番ふさわしい言葉は何かと考えたとき、町山さんが著書の最初に書いていた言葉が思い浮かびました。

(『ジェラシー』は)心理学者が愛した女性への嫉妬で彼女を責め、滅ぼす物語で、そこには自分がいた。どうしようもなく嫉妬深く、自分勝手で、滑稽で恥ずかしい男が。


この「どうしようもなく嫉妬深く、自分勝手で、滑稽で恥ずかしい男」である「自分がいた」という言葉はまさに自分自身の感想を表していると思いました。

それでも思うのは、観客として見れば「どうしようもなく嫉妬深く、自分勝手で、滑稽で恥ずかしい男」だとしても、それが「愛する」ということだと思っているという本人にとっての事実です。
愛するが故に嫉妬深くなってしまい、自分勝手になってしまい、恥ずかしい行動もする。
観客としてみればそう見えたとしても、本人にとっては真剣で、真剣であるからこそ観客にとっては際だって見えます。

アート・ガーファンクルが演じるアレックスが自分だとしたら、自分にもやはり、ミレーナの「愛して!」という願いに対して自分が何を出来るのか、彼女が何を望んでいるのかがよく分かりませんでした。
アレックスとしてはミレーナが要求するように愛しているにも関わらずミレーナはそれを愛とは受け取らない。
そして、ミレーナは「愛して!」と叫びつつ、どんどん破滅的な行動に出る。

こんなにも自分(アレックス)はミレーナを愛しているのに、なぜそれが伝わらないんだ、という苦悩。
最後のアレックスの行動はクズでしかないと思いますが、「愛」を巡ってこれでもかとすれ違う過程の最後にはふさわしい決定的なすれ違いでもあったように思います。

ちなみに、この作品、レーティングがされていないようですが、セックスシーンもありますし、アレックスの陰嚢も見えたように思うので、R15くらいの感覚で、子どもがいる場合には配慮したり、大人でも観る際には気をつけていた方が良いと思います。

足首を捻挫する

足首を捻挫しました。

ぽっこり外くるぶしが腫れてしまい、足首を動かすと痛みが走ります。
小さい頃打撲は良くありましたが、腫れたり捻挫したりするのは、初めての経験です。
家事担当だったので包丁傷は割とよくありましたが、こういう怪我自体もかなり久しぶりのような気がします。 

 

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何で捻挫してしまったのかというと、横断歩道の信号が赤になりそうだったので走ったら、段差には気付いていたのですが、その段差を飛び越えた先の道が陥没していて、そこでぐきっと捻ってしまいました…。

かなり派手に捻ったことはすぐにわかり、数分歩けない程だったのですが、その後はびっこを引きながらも歩けたのでとりあえず向かっていた場所まで行きました。
そして、到着した場所で靴下を脱いで見てみると、外くるぶしがかなり腫れていました。

けれど、以前陣馬山に行った際に会った怪我をしていた方の足首はもっともっとパンパンに腫れていたので、骨は折れていないこと、靱帯も多分断裂していないだろうと判断しました。
ということで、薬局で抗炎症薬とサポーターを買い、患部に薬を貼り、サポーターで覆ったら2日後には、びっこを引かなくても歩けるようになりました。

週末に怪我をしてしまったので、病院に行かずに様子を見ていたのですが、週明けには腫れは痛みよりも残っていましたが、仕事にも行けたので、結局病院には行かずに済みました。

信号を1つ早く渡らなければいけないほど時間に追われる生活をしているわけではないので(日陰がない場所だったので、日差しの中信号が次に青に変わるまで待ちたくなかったのですが)、これからは信号が点滅したら慌てずにいたいと思います。

「ブルーバレンタイン」

 今回の映画も、前回同様町山智浩さんの『トラウマ恋愛映画入門』に載っていたので、TSUTAYAディスカスで88円で借りて観た作品です。
 『トラウマ恋愛映画入門』の表紙に使われている作品でもあります。
 


ブルーバレンタイン (字幕版)

 

作品データ映画.comより)
監督 デレク・シアンフランス
原題 Blue Valentine
製作年 2010年
製作国 アメリ
配給 クロックワークス
上映時間 112分
映倫区分 R15+

あらすじシネマトゥデイより)
結婚7年目を迎え、娘と共に3人で暮らすディーン(ライアン・ゴズリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)夫妻。努力の末に資格を取って忙しく働く妻シンディに対し、夫ディーンの仕事は順調ではない。お互い相手に不満を募らせながらも、平穏な家庭生活を何とか守ろうとする2人だったが、かつては夢中で愛し合った時期があった……。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 去年爆発的な人気となった「ラ・ラ・ランド」で主役を演じたライアン・ゴズリングと、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」で火事で子どもたちを失ったあと主人公リーから離れていった元妻を演じたミシェル・ウィリアムズの二人が繰り広げる恋愛・夫婦の変遷を描いた作品です。

 5歳くらいの娘フランキーとの3人で暮らす現在を描きながら、ライアン・ゴズリング演じるディーンと、ミシェル・ウィリアムズ演じるシンディが出会い、惹かれあい、結婚するまでの様子が合間合間に挿入されます。

 まずすごいのは、ライアン・ゴズリングの役作りで、娘が5歳ということは、出会いから6年くらいしか経っていないにも関わらず、額の生え際は後退し、禿げかかってきています。
 役作りのために生え際の毛を抜いたとのことですが、6年でここまで変わってしまうのか、15年は経っているのではないか、という程老けて見えます。
 しかし、外見は年を経ているにも関わらず、ディーンがシンディと出会った頃と変わらずに、シンディの気持ちの変化に全く気付かずに接する様子です。
 この様子を町山さんはこう書いています。
 

 シンディとディlンは確かに愛し合っていた。それは事実だが、ディーンの腹が出て頭が禿げたように、時は経つ。だがディーンは変わらなかった。でも、それは怠惰だった。「誓ったじゃないか! 」とシンディに言ったように、いちど結婚というスタンプさえ押してしまえば、よほどの失敗をしない限り許されるものだと甘くみていた。相手が出すシグナルをまるで見ていなかった。相手の変化、相手の成長、相手が欲しいものを考えようとしなかった。
 愛は得ただけでは済まない。水をやるのを忘れたらすぐに枯れてしまう。愛さえあれば何でも解決できるわけではない。でも、それを教えてくれる映画はなぜかほとんどない。

 
 町山さんはディーンが「変わらなかった」、「結婚というスタンプさえ押してしまえば、よほどの失敗をしない限り許されるものだと甘くみていた」と断罪していますが、僕にはディーンが「怠惰」だとは思えませんでした。
 それは、そもそもディーンは中卒(高校中退)で、アメリカでは医師に次ぐポストとである看護師であるシンディとは育った環境がまるで違うからです。
 
 確かにシンディの祖母は祖父に虐げられ、また、母も父から虐げられ、母は父に背くことすら出来ず耐え忍ぶだけ、という家庭環境だったものの、教育歴とすれば、父はなく、母も男を作って自分を放って出て行き、満足に教育を受けられず、家族と呼べる者が一切いないディーンとは何もかもが違っているのです。
 ディーンはシンディから午前中から酒を飲むような生活はやめて、と言われるものの、仕事自体はペンキ塗りをしていますし、早く仕事が終わるからこそ、娘のフランキーの育児もこなしています。
 母親であるシンディが仕事に集中できるのもディーンが今の生活に何の不満も抱かずにいるからです。

 でも、シンディとしては、ディーンが怠惰な生活を送っているようにしか見えない。
 「今の生活に不満を抱いていない」ということは、もっと良い生活を送ろう、何かあらたな目標に向かって進んでいるわけではない、と映ってしまうのです。

 それでもディーンは、なんとかシンディと出会った頃のことを思い出して、もう一度親密になりたいと願うけれど、結局それは叶うことがなく、絶望のあまり、より絶望的な情況を自らが作り出してしまう。

 男と女というように区切って一般化して考えることはなるべく控えたいと思いますが、なんだか僕と元配偶者との関係がそのまま映し出されたようで、リアルさを感じる一方、これはこれでお互いにとってどうしようもなかったことなのだ、と感じました。