渡辺憲司『生きるために本当に大切なこと』
ある日、ふとネットでこのニュースが表示されました。
ここに写っているのはよく見覚えのある顔で、母校(大学)の学部の名物教授であり、その後母校(高校)の校長になった渡辺憲司先生です。
学部では同じ文学部にいたものの、僕自身は大学で渡辺先生の授業は受けたことがないのですが(渡辺先生は当時日本文学科教授で僕は別の学科)、母が母校(大学)でパートとして働いていた際には母も接する機会があったとのことで、直接お話したことはほぼありませんが僕の中ではとても親近感のある大学の先生です。
さらに、2011年の東日本大震災の際に学校HPに掲載した文章(「時に海を見よ」と題された訓示(卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。))もネットで反響があり、「さすが自由の学府」だな、と高校、大学の一卒業生として(特に自分自身は何もしていないものの)誇らしくさえ感じました。
で、記事によるとその渡辺先生が本を出したということで、文庫だったので、読んでみることにしました。
生きるために本当に大切なこと (角川文庫)
生きるために本当に大切なこと 渡辺 憲司:文庫 | KADOKAWA
内容(KADOKAWAより)
僕たちは、未来をどう生きるか。今、本当のやさしさが求められている。
立教大学名誉教授、自由学園最高学部学部長、元立教新座中学校・高等学校校長の渡辺憲司は、2011年3月、立教新座高等学校の卒業式が中止となり、卒業生へのメッセージをインターネット上に公開した。TwitterをはじめネットやSNSで話題となり、3月16日の一日だけで30万ページビュー、合計で80万回以上の接続数を記録。その力強く優しいメッセージに老若男女が感動した。2020年3月、自由学園最高学部長ブログ146回「今本当のやさしさが問われている コロナ対策に向けて」が再び話題に。本書は当時のメッセージを再録しブログ原稿を採録、書下ろしを加えて再編成した。混迷の時代に、生きることの意味を問う、多くの気づきと自信を与えてくれる人生哲学書。
感想
自由学園最高学部長をしていることは知っていたものの(この3月で退職)、「今本当のやさしさが問われている コロナ対策に向けて」が話題になっていたことは知りませんでした。
この本に収められているのは高校や自由学園最高学部長として書いていたブログを元に構成されていて、期間にするとおよそ10年間に書かれたものになります。
東日本大震災から始まり、昨年からのコロナ禍を反映したものが書かれており、更に、江戸吉原の研究者でもある先生の専門分野に触れたものも多くあります。
また、母校(高校)の校長はクリスチャンコード(クリスチャンじゃないと校長になれない)があったので、高校の校長に就任したということを聞いた時、「クリスチャンだったの?」と初めて先生がクリスチャンだったことを知ったのですが、キリスト教に触れた話もありました。
今まで全くキリスト教の話を聞いたことがなかったので(話題を呼んだ訓辞でも特にキリスト教には触れられていません)、この本を読んで初めて渡辺先生からキリスト教の話を聞いたというか読みました。
それがなんというか人柄を知っていると(ブラタモリに出演したこともあるので、それを観ると少しは伝わるかと思います)、なんとなくにやついてしまいつつも(愛とか説いてるので…)、とても新鮮な気持ちで読みました。
僕が通った高校は本当に自由で、制服の着用義務もなく、基本的に「法律を犯さなければ良い」みたいな感じでした(注:20年近く前の話です)。
なので、僕は暑くなるとハーフパンツとTシャツで学校に通い、寒くなってくると洋服を選ぶのが面倒なので学ランを着て行き、髪の毛を染めたり、ピアスをしていた時もあります。
その高校3年間の間に与えられた「自由」というものが(まぁ、単位は取らないといけないので全くの自由というわけではないのですが)、とても居心地の良いものだったし、だからこそ、「責任」というものも感じることができ(基本的に放っておかれるので、やらなければ、そのままドロップアウトすることになり、実際にそういう奴や校内でタバコを吸っているのを見つかり停学になったりする奴や大学進学出来ない奴がいた)、担任からは「就職出来ないぞ」と言われるような学科に進学する選択が出来ました。
渡辺先生の文章はその高校の時に感じたことを思い起こさせるような、そんな懐かしさを感じつつ、今こうして今の仕事を辞めることが決まり、どう生きていこうかと考えているときに、さて、どう生きていこうか、と考える時の杖(道しるべにはならないけれど、支えられ、どっちに行こうか迷ったら杖を倒して進む道を決めるような感じです)のように感じられました。
グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』
(コロナ禍で)時間が出来たので、読もうと思っていて積ん読していた本を読むことが出来ました。
最初に目にしたのは、新宿の紀伊國屋書店だったかだと思うのですが、表紙とタイトルに目が奪われ、その時はまだ出版されてすぐだったということもあり、レビューがなかったのですが、それでもパラパラめくってみたら、これは読むべき本だと思い、手に取りました。
男らしさの終焉
内容(フィルムアート社より)
「男」に悩むすべての人へ
男性が変われば世界全体をより良い場所にできるはず
ターナー賞アーティストであり異性装者(トランスヴェスタイト)としても知られるグレイソン・ペリーが、新しい時代のジェンダーとしなやかな男性のあり方を模索する─
勝手に五段階評価
★★★★★
感想
版元のフィルムアート社の紹介文にあるように、この本は「『男』に悩むすべての人へ」向けられた本です。
つまり、「男」に悩む人、ということは、性別や年齢、国籍、出身地に関わることなく、誰もが含まれます。
僕自身は、僕自身が男であることに悩む者でもありますし、悩むことなく、むしろ時にはそれを利用し、けれどもやっぱりうんざりする時もあって、総じて、「男」にめんどくささを感じている者です。
で、何故僕が総じて「男」にめんどくささを感じているのかというと、この本でいうところの、「デフォルトマン」(基準となる男)によって、社会システムやジェンダーロールが構成されているからです。
この本の著者グレイソン・ペリーはイングランドを元に書いているので、割と露骨な階級社会も書いていますが、日本でも「学歴」だったり、「容姿」だったり、あるいは「男らしさ」(あるいは「女々しい」)という言葉に現れるような情緒面で「男」を「デフォルト」(基準)とされる社会設計がされています。
僕自身は日本での「デフォルトマン」と見えるような学歴ですし、今の社会的立場も割とそれに近い部分があるかと思います。
けれど、僕自身はその「男」ということにめんどくささの方を強く感じてきました。
多くの男性にとって、男性的に振る舞うことは、ペニスや睾丸や低い声と同じく確かに生物的なものである。しかし男性性は主に、男性の歴史がつくり出した習慣、伝統、信念の組み合わせである。
この指摘は「多くの男性」だけでなく、「女性」にも当てはまるのではないか、と僕は日々感じています。
今、僕は割と女性の多い職場で働いているのですが、あるとき、職場に来客があったので、飲み物を出すことになったのですが、その時、同僚の女性が「まぁ、男性にそこまで求めないかも知れないけれど」と言いました。
そして、他の場面だったかで、職場に来客があったとき、飲み物を運んだら「うちは男性でもお茶を出すんですよ」と組織のトップ(男)が言ったのでした。
2人の発言ともに、今でも意味が分からないというか、戸惑いしか感じませんし、モヤモヤを感じています。
「男だから求められない」飲み物の出し方?、「男性でもお茶を出す」?、ってことは、標準がお茶を出す=女性の役割ということ?
っていうか、僕を何故「男」だと勝手に判断してるの?
見た目?
ペニスがついてるから?(見られたことないけど)
ホント意味分からなくて悩んでます。
育った家の両親は割とリベラルだとは思いますが、それでも父親はほぼ家事はしないので(母は料理「は」好きだと言っていたけれど)、定年退職し、家にいる父親が口だけ出している姿を見て「言うならお前がやれよ」と毎回うんざりしています。
実際、母親からよく愚痴を聞きます。
が、それらの何もかもめんどうなので、このコロナ禍でより距離を置けて少し楽になっているのですが、職場では相変わらず、僕は「男」として見られている。
まぁ、それはある意味仕方がないことですし、僕もアタイアとしてわざとネクタイをして出勤しているので、それを利用している面もあるのですが、それでもやはり勝手に「男とは~」みたいな「デフォルト」にさらされると、うんざりしてしまいます。
飲み物は誰が出したって良いし、細部まで気づけるのは、その人の性格だったり、たまたまのタイミングだったりする。
女性の方が圧倒的に「男」にうんざりさせられることが多いと思いますが、男性である著者が同じようなことを思っているということは、少なくとも、僕は今まで身近な「男」にはいなかったので、とても勇気づけられるような気がしました。
坂口恭平さんの「躁鬱大学」
五月に入ってから、毎日楽しみにしている連載があります。
それが、坂口恭平さんの「躁鬱大学」です。
連載と言っても、坂口さんが無料でアップされているので、本当にその日の朝に書いたものが載っているようです。
始まったのがゴールデンウィーク近辺だったこともあり、「また坂口さんが面白そうなことしてるな」と思って、つい読み始めたのですが、これが本当に面白いです。
最初はそもそも「カンダバシ」って誰?、「神田橋語録」って何?と思ったのですが、文章だけでなく、「講義」にも発展し、文章だけでなく、音声版も聴いています。
神田橋語録はネットで探したら出てきたので(神田橋語録:波多腰心療クリニック(PDF))、プリントアウトしました。
坂口さんがテキストにしている神田橋語録も読んでいてすごく楽になるのですが、坂口さんの「講義」も本当に良いです。
僕はうつ病で、医師の診断からすれば「躁鬱病」(双極性障害)ではないのですが、当てはまることが多すぎて、途中から自分は「躁鬱人」であると認めざるを得なくなりました。
そろそろ、この坂口さんの連載も終わりになると思いますが、僕はまた生きるのが楽になりました。
それは、具体的な対処法が載っていたこととともに、同じ感覚を持って生きている人がいる、ということを知ることが出来たからです。
ですが、一番難しいのが、処世術です。
躁鬱人ではない人とお金を稼ぐための生活を普段送っている僕はどうしたら良いのか、昨日書かれた「 その15」でもある程度の処方を書いてもらえましたが、まだほんのちょっと「それでもなぁ」と思ってしまう自分がいるので、終わりまで楽しみにしたいと思います。
「言葉」の学び直し
なんだか、多くの人が暇になってきたからか(時間が出来たからか)、それともそれに伴ってストレスが過多になっているからか、過激な言葉や表現が目につくようになりました。
また、在宅勤務(テレワーク)も進んだ影響で、「文脈以前に言葉そのものが伝わらねぇ」と思うことが増え、僕自身のストレスも増えました。
ということで、いっそ、この際、日本語を学び直そうと思いました。
で、どうしたのかというと、紙の広辞苑を買いました。
広辞苑 第七版
内容案内(PDFリンク)
僕は電子辞書を持っているので、そこには第六版の広辞苑が入っているのですが、紙の広辞苑(めちゃくちゃ高いけど)を買って良かったです。
すごく楽しいです。
その楽しさには、いろんな意味があって、シンプルに「紙」ということ、触れることが出来るということがあります。
そして、もう一つはぱっと開いたところで思わぬ言葉が出てくることです。
今、ぱっと開いてみたら、「しんり」というページ(1530頁)になりました。
そこで最初に載っているのは「心理」という言葉の説明です。
そこにはこう書いてあります。
①心の働き。意識の状態または現象。行動によって捉えられる心的過程をも指す。
②心理学の略。
このように載っていました。
じゃあ、「『心』って何?」と思った僕は「心」のページを開きます。
そこには、こう載っています。
(猛禽などの臓腑の姿を見て「こ(凝)る」または「ここる」といったのが語源か。転じて、人間の内臓の通称となり、更に精神の意味に転じた)
①人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用。(以下略)
今回たまたま「心」に行き当たりましたが、最初に調べた言葉は【不幸】というものでした。
そこから【幸せ】に移動し、【心】に行き当たりました。
で、広辞苑を持っている人は是非【心】の箇所を読んでいただきたいのですが、上に書いた箇所だけで既にかなり曖昧です。
なんだ、結局「言葉」も「誰か」、というか、「多くの人」が認識しているものであって、移ろうもの、定まっていないものなのだということを知って、なんだか安心しました。
「あれっ?結局人間って使ってる言葉はかなり適当なんだ」と知ることが出来ました。
ついつい、「言葉が伝わらねぇ」とイライラしてしまいがちでしたが、紙の広辞苑を開くことによって、「そもそも言葉は曖昧である」ということを知ることが出来て良かったです。
(ちなみに、広辞苑の紙の「匂い」は僕の好きな紙の匂いではないので、それが理由で、広辞苑を開くのをためらってしまいますが…)
戸田真琴『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』
先日読んだ、戸田真琴さんのエッセイ『あなたの孤独は美しい』がすごく良かったというか、もっとシンプルに、この人の文章をもっと読みたいと思い、もう一冊出ているこの本を読みました。
人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても
人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても 戸田 真琴:一般書 | KADOKAWA
内容(KADOKAWAより)
いつか、ちゃんと愛を始めてみたかった
いつか、どこかに、私にしか愛することのできない誰かがいるかもしれない。
その時にちゃんと愛を始めてみたかった――
現役AV女優として活躍するかたわら、自らの言葉を綴ってきた戸田真琴。
真実を捉えていて、それぞれの立場に寄りそい、読むひとの心に届く彼女の言葉には男女ともに多くのファンがいる。
恋愛がすべてではないし、男女である前にひとりの人間同士だし、いつも器用に生きられなくたっていい、そうわかってはいるけれど、やり場のない感情を抱いてしまうとき。
この本に記された言葉は、そんなあなたに見つけられるのを待っています。
感想
僕が先日、神学校の同級生で友人が今年のはじめに自死したことが今でも悲しいのだということを書いたのは(自死した友人についての話)、この本を読んだからです。
晴れた日に、大きな公園のベンチでこの本を読んでいた時、読みかけだったのですが、友人が自死したこと、彼が今この世にいないということが悲しいという、その自分の「気持ち」にちゃんと向き合っていないと思いました。
彼が死んだことは本当に悲しく、子どもたちと離れて暮らすことよりも遙かに悲しく、今まで経験したことのない悲しさを今も感じています。
その「気持ち」にちゃんと僕自身が向き合っていないな、とこの本を読んでいる時に思い、ばーっと家に帰って書いたのが、あの文章になります。
このエッセイというか、戸田真琴さんのすごさは、冒頭にある、この文章がすべてを物語っています。
私は私を生きている。あなたはあなたを生きている。それが素晴らしいのだと、それだけが本当は美しいのだと、私は言い続けることができる。自信満々で。
正直、僕は「愛」という言葉がものすごく苦手です。
愛について語られると身構えてしまうし、日本でも結構人気なエーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んでもよく分かりませんでしたし、レイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』を読んでもよく分かりませんでした。
今でも歌とかで「愛」とかいう言葉が出てくる度に身構えてしまうというか、むしろ、一歩だけでなく何歩も引いてしまう自分がいて、この本のタイトルに「愛」という単語があった時点で、読むかどうか躊躇しました。
けれど、もしかしたら、愛というのはこういうことをいうのかな、と。
「生きている」こと、「それが素晴らし」く「それだけが本当は美し」く、それを「言い続ける」ということ。
この人は本当に「愛」のある人なんだ、と思いました。
僕は誰かに向かってこんなことを言うことは出来ません。
しかも、「自信満々で」なんて。
それは、自分自身に確実なものなんてなくて、一貫したものもなくて、常に変わっているからで、今日好きだったもの、あるいは、今、美しいと感じたものが、次の日、次の瞬間には好きじゃなくなっていたり、その時感じた「美しさ」を感じられない自分がいるからです。
でも、戸田さんは、それさえも分かって言い切っている。
それが本当にすごくて、この人はなんて強く、優しい人なんだろう、と。
この人が言うのなら、確かにそれは「愛」であって、愛というものがあるのかも知れないと思いました。
ハ・ワン『あやうく一生懸命生きるところだった』
昨日ぼそっと書きましたが、毎日ではないですが「仕事辞めたいなぁ」と思いながら、過ごしています。
それと、COVID-19の影響で9~15時勤務になったので、無駄に考え事をする時間が出来てしまったのも、あんまり良くないんだろうな、とも思うのですが、よく考えたら、今の生活、高校3年生の時の生活と殆ど同じだなぁ、と思ったら少し楽になりました(受験がなかったので)。
家事はしなくちゃいけないし、職場でのストレスもありますが、高校にもクソみたいな教師やクラスメイトはいたし、授業中は寝るか本読んで(ここも今と違う)、家に帰ったら、映画観て、本読んで、寝るという生活を送っていました。
でも、今は家に(元々そんなに何か言ってくる人たちではないけれど)親もいなし、何よりも仲の悪い兄もいないし、お金も自由に使えて、ある程度好きな時に好きな場所に行けて、その時の気分でささっとお店に行って買い物したり、食べたり出来る。
高3の時は、うつ病じゃなかったし、いつまでも眠れていて、もしかしたら、今の生活が続けば、うつ病も不眠もなくなったりして?とか思ったりしています。
ということで、読みたい本をたくさん読める時間が出来たので、気になったこの本を読んでみました。
あやうく一生懸命生きるところだった
あやうく一生懸命生きるところだった | 書籍 | ダイヤモンド社
内容(ダイヤモンド社より)
「正直なところ、この選択がどんな結果を生むのか僕もわからない。“頑張らない人生”なんて初めてだ。これは、僕の人生を賭けた実験だ——」。韓国で25万部超のベストセラーが待望の邦訳! 他人の目を気にせず、自分らしく、頑張らずに生きることを決意した著者が贈る、生きづらさを手放すための言葉
勝手に五段階評価
★★★★★
感想
タイトルの通り、率直な感想としては僕も「あやうく一生懸命生きるところだった」と思いました。
そして、職場でストレスを感じると、この言葉を頭の中で暗唱し、家に帰ってもモヤモヤするのですが、その時も呪文のように唱えています。
先日も珍しく寝付きが悪かったので(僕の不眠の症状は中途覚醒なので寝付きは良いです)、この言葉と「多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。」を思い出しながら寝ました。
先日のオンライン飲み会でもそうだったのですが、離婚したことをみんなが「触れてはいけない話題」、つまり僕を「かわいそうな人」と思っているようで、僕はそれが少し悲しかったです。
離婚しても別に僕は「かわいそう」でも「不幸」でもありません。
子どもたちになかなか会えませんが、子どもたちの方が適応力があるようで、COVID-19による緊急事態宣言が出た直後、子どもたちに電話したら、「えっ?何?全然大丈夫だよー」と三人とも言っていました。
なので、僕も「それならオッケー!いつでも連絡してね。」と言って終わりました。
ということで、(ストレスは感じるものの)まぁ、ひとりで暮らしていけるお金をもらえる仕事はあるし、何よりも今は時間もたっぷりあって、映画や本を読んだり、散歩に行けて中々快適な生活を送っています。
この本の中で良いな、と思った箇所はいくつもあるのですが、今のこの情況を端的に表しているのはこれかな、と思います。
みんなが正しいと信じる価値観に同意しない者への暴力。
なぜまわりに倣わない? 説明してみろよ。
多くの人が「外出自粛」している中、「いつも通り」過ごしていることへの批判的な目。
法律を犯しているわけでもないのに、何故か「みんなが正しいと信じる価値観に同意しない」で過ごしているだけで向けられる暴力性。
その、「みんな」が「マジョリティ」だからこそ、「マイノリティ」はいつだって「説明」が求められる。
でも、もう正直、うんざりなんですよ。
僕はこれまでいろんな意味でマイノリティでした。
そもそも生まれたときから親は高齢だったし、祖父母は明治生まれだったし、母親は10人きょうだいの末っ子だったし、父方がクリスチャンということで、幼児洗礼を受けていたので、クリスチャンということになっていたし。
大学に進むときは、当時学部生全体が1万人くらいの中、キリスト教学科という1学年で50人くらいしかいない学科に進み(これは僕が幼児洗礼を受けていたこととは全く関係なく自分で選びました。学内の人に「えっ?キリ科?初めて会ったわー」と何度言われたことか)、22歳で結婚し、さらに、妻側の姓に改姓し(「婿養子なの?」と聞くのは決まって男)、けれど、社会的には元の姓を使って生活し(履歴書にはわざわざ二つの名前を書かなきゃいけないし、クレジットカードも銀行口座も運転免許証も教員免許状もパスポートも戸籍名)、元妻がフルタイムで働いていたこともあり、(専業ではありませんが)子育て主夫として生活していたこと、さらに、うつ病になり、その上、今は離婚し、一人で暮らしている。
そもそも「みんなが正しいと信じる価値観」に対してまず疑う、という気質の僕は、多くの場合「同意しない」という選択をしてきました。
中学での「成績」という名の権威を振りかざした「正しさ」による教師の「暴力」と、それを「仕方がないこと」と受け止める人たちの多さにうんざりし、僕は実際にそれは「暴力」だし、一方的に「正しさ」を突きつけないでくれと、反論しました。
今になれば、稚拙な方法だったかなということもしましたが。
もう、何もかも「みんなが正しいと信じる価値観に同意し」ていないというだけで向けられる暴力。
うんざりなんです。
その「みんな」に説明する時間があったら(といっても説明した相手が必ずしも理解したり納得するわけでもない)、映画観て、本読んで、こうしてブログ書いて、あるいは、会いたい人に会いに行って美味しいものを食べたい。
人生って、それだけで十分なんじゃないかな、と。
ということで、「あやうく一生懸命生きるところだった」ので、自分のペースで生きていこうと思います。
といっても、それでも周りの目、同調圧力はあるんですけど、なんとか切り抜けながら、切り抜ける方法を模索しながらいければ良いな、と思います。
戸田真琴『あなたの孤独は美しい』
一ページ目を読んで涙が出たのは初めてです。
戸田真琴さんの文章を初めて読んだのは、どんなきっかけだったのかは忘れてしまいましたが、(無料で読める範囲だけだけど)noteでの文章を読み、この人の文章と感性は良いなぁ、と思いました。
ですが、本を買うまでにはならなかったのですが、最近のnoteでの投稿(「悪気のない最悪」-岡村隆史さんのANNでの発言に対して思うこと|戸田真琴|note)を読んで、出している本が気になりました。
で、いくつかのインタビュー記事を読んで、最初に出したこの本が良さそうだなと思って読みました。
あなたの孤独は美しい
内容(竹書房より)
SNS社会で異彩の存在――AV女優・戸田真琴、書き下ろし処女エッセイ。
格差社会の拡大、未来への薄暗い不安、ただなんとなく日々苦しい……そんな押しつぶされそうな現実の中で、戸田真琴が贈る孤独賛歌。
感想
最初に書いたように、最初のページを読んで涙が出ました。
それは何というか、予想もしていなかったのに、突然今までのこともすべて肯定され包み込まれたような、そんな感覚でした。
そこから読み進めていって、まぁ、いろんなことを考えたのですが、この本のタイトルにあるように「孤独」について書いていきたいと思います。
「あぁ、僕は孤独だな」と、改めて思いました。
今までも孤独だったし、今も孤独で、でも、それは決して悪いことではない。
一昨年、暴力的に家から追い出された時、「さみしい」と感じました。
それは一人暮らしをした経験がなかったこと、3人の子どもたちがいつもいたこと。
その環境から突然切り離され、一人きりになったからで、その時「さみしい」と感じました。
今はどうかというと、特にさみしいという気持ちはありません。
子どもたちと離れて暮らす生活にもようやく慣れ、一人暮らしも3年目になり、一人で暮らす快適さも身についてきました。
なので「さみしさ」は感じないのですが、この本を読んで改めて気づかされたのは、僕は孤独だったし、今も孤独だ、ということです。
僕が一番孤独を感じていたというか、孤独であるということをひしひしと感じていたのは10代後半です。
村上春樹の小説から始まって、小説を読むようになり、映画を年に100作品くらい観るような生活を送っていた10代後半、僕は僕が孤独であるということをひしひしと感じていました。
時にはそれが「さみしい」という気持ちにも結びついたのですが、人間はそれぞれが孤独なのだということの気づきは、僕にとっては生き方の指針になりました。
それから割とすぐに結婚し、子どもが生まれ、その家族と一緒に暮らしてきたので、いつの間にか忘れてしまっていた「孤独である」ということ。
僕は今また10数年経って、孤独である、ということを教えてもらいました。
僕にとって「孤独である」ということは決して「さみしさ」と結びついているわけではなくて、それは、「個」であるということを表しているような気がします。
僕は僕であって、僕以外の誰も僕にはなれないし、同じように、目の前にいる相手はその人であって、僕がその人になることも出来ない。
だからどんなに自分が感じていることを伝えようとしても、相手に伝わったかのように自分が感じられたとしても、それが本当に「同じ」かどうかはわからない。
というか、どんな言葉や行動、時間を費やしたとしても、わかり合えるなどありえないということ。
それは相手のことを理解したいということや、自分のことを知って欲しいということへの諦めではなくて、僕の中では大切な「事実」である、ということ。
10年以上「自分の」家族と暮らしていたことですっかり忘れてしまっていたなぁ、と。
僕は今までも孤独だったし、今も孤独である、と。
そこからまたはじめようと思いました。
この本の中に書いてある戸田さんのエッセイは、その「孤独である僕」を包むというか、隣にいてくれるというか、そういう感じがしました。
そして、なんてこの人は優しいんだろう、と。
それはあらゆる「他者」への態度で伝わってきて、お姉さんとのエピソードでも、両親への接し方、クラスメイトへの接し方にあらわれているし、仕事の話でも伝わってくるし、「優しさの周波数」という項目も実際にあって、そういうことを考えること自体がそもそも「優しさ」に満ちあふれているな、と。
まだまだたくさんのことを読みながら考えたのだけれど、今回はこの辺で。