映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

水谷緑『大切な人が死ぬとき ~私の後悔を緩和ケアナースに相談してみた~」

 先日書店に寄った時に気になり、電子書籍で買った本です。
 書店で買わなかった理由は電子書籍で売っていることがわかったことと、電子書籍版の方が安かったからです。
 そして、なぜ買って読んだのかというと、同じ著者の水谷緑さんが描いた『精神科ナースになったわけ』を読んでいたからです(感想は書いていませんが)。

 


大切な人が死ぬとき ~私の後悔を緩和ケアナースに相談してみた~ (バンブーコミックス エッセイセレクション)

 

大切な人が死ぬとき 〜私の後悔を緩和ケアナースに相談してみた〜|書籍|竹書房 -TAKESHOBO-


内容竹書房より)
「もっとできることがあったんじゃ…」
看取りで残った後悔と罪悪感――。
そこで、緩和ケアナースに話を聞いてわかったこと。
それは、大切な人が、残された時間を「どう生きたいか」を知ること。

勝手に五段階評価
★★★★☆

感想
 物語の内容としては、がんで父親を亡くした娘(主人公)がもっと何か出来ることがあったのではないか、と思いつつ何年も過ごし、緩和ケアナースに話を聞いてみる、というものです。
 この作品の中で一番僕の中で刺さったのは、ある患者さんが発したこの言葉です。

 

生きていくのはつらいなぁ

 
 この言葉を聞いて、主人公と緩和ケアナースは凍り付くのですが、僕はこの言葉を発した患者さんの気持ちがよくわかります。

 「生きていくのはつらい」

 というか、この言葉に凍り付くということの方が僕にとっては距離がありすぎてよくわかりません。
 むしろ「生きてくのつらくないの?えっ?なんで?」と聞きたいくらいです。

 でも、僕は僕のこの感覚が万人に共通するとも思っていないので、そのとき想像したのは、娘(長女)のことです。
 もしかして、僕が死ぬとき、この本の主人公のようなショックを受けるのだろうか。
 こんなに何年も引きずってしまうことをなんとか避けなければならない、と。

 どうしたら良いのかなんて、僕は娘ではないですし、娘がどう捉えるのかなんてわかりませんし、「そのとき」が来なければ(娘と僕含め)それこそ誰にもわからないことなので、どんなことをしようとしても意味がないことなのかもしれません。
 けれど、この作品を読んで思ったのは、「こんなつらい気持ちにさせたくないな」ということです。

 どうしたら避けることが出来るのか。
 僕は娘より先に死にます(でなきゃ困る)。
 それが自死によるものなのか、病気なのか、あるいは多臓器不全(≒老衰)であったとしても。

 せめて、子どもたちには、それを乗り越えるというか、受け止められる「備え」だけはしておいて欲しいな、と。
 その一つとして、このブログが位置づけられれば良いな、と思います。

村上春樹『猫を棄てる』

 先日、仕事が早く終わったので(15時過ぎ)、書店に寄りました。
 近所を散歩して初めてわかりましたが、休業ではなく、すでに閉店しているお店があり、これでは本当に困るということで、大きな資本の書店はまだ体力(資金)があるとしても、個人書店はつぶれてしまう、と、いつもなら書店に行っても眺めるだけで、買うのは結局ネットなのですが、久しぶりに書店で本を買いました。

 実際に買ったのは2冊(気になって後で電子書籍で買ったのが1冊)で、そのうちの一冊がこの本です。
 


猫を棄てる 父親について語るとき

 

『猫を棄てる 父親について語るとき』村上春樹 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS

内容文藝春秋BOOKSより)
時が忘れさせるものがあり、そして時が呼び起こすものがある
ある夏の日、僕は父親と一緒に猫を海岸に棄てに行った。歴史は過去のものではない。このことはいつか書かなくてはと、長いあいだ思っていた―――村上文学のあるルーツ

勝手に五段階評価
★★★★★

感想
 昨年6月号の「文藝春秋」に掲載されたエッセイが単行本になったもので、その時すでに「村上春樹が父親のことを語った」と話題にはなっていたのですが、自分の身にいろいろありすぎたこともあり(調停真っただ中で上司からパワハラ受ける)、読めていませんでした。
 ありがちな出来事かもしれませんが、僕が小説を読み始めた大きなきっかけは、村上春樹の作品を読んだからです。
 高校1年だったか、2年だったかの時に、初めて村上春樹の作品を読みました(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)。
 その世界に圧倒され、母校は図書館が本当に充実していたので、ほとんどすべての村上春樹作品があったので、村上作品を最初から全部読みました。
 そして、友人たちが原田宗典にはまって、ずっと原田作品を話している中、「一つでいいから村上春樹の作品を読んでくれ」と言い続けた結果、彼らもハルキスト(死語?)になりました。

 そんな出来事から約20年、すっかり本を読む時間もなく、読むとしてもマンガや簡単に読めるようなものばかりで、世界観に深く入ることが必要とされる小説を読む余裕もなく、村上春樹の作品は読んでいるものの、翻訳している作品は積読されてもう何年(というか10年以上?)も経ちました。

 で、コロナの影響(というかそれによってピリピリしている人たちと、右往左往する上からの指示)で、忙しかったものの、ようやく訪れたつかの間の時間。
 その時寄った書店で目にしたのがこの本です。

 村上春樹は1949年生まれなので、僕の両親より少し若いのですが、僕はこの文章を、村上春樹自身かのようにとらえながら読みました。
 僕の父は1945年生まれです。
 村上春樹のような決定的な出来事はないのですが、僕は父のことをどうしても許すことができないでいます。
 具体的なことを書いても仕方ないので書きませんが、今でなら多分児童相談所に通報されるようなことをされていました(というか僕なら通報する)。

 まぁ、祖父が明治生まれで、父自身も(わずかだけれども)第二次世界大戦下に生まれたという、その世代が持っている価値観というか、考え方があったのでしょうが、僕にとってはそんなことは許せる理由になろうはずもなく、今も父とは曖昧な関係でいます。

 なので、村上春樹が70歳になって、死後何年もしてようやく自身の父親のことを書くことが出来た、というのは、なんというか、僕もまだ父に対するモヤモヤを抱えたままで良いのだ、という気持ちにしてもらえました。

 また、この作品の中で多くの人が取り上げるであろうエピソードに、降りられなくなった猫があると思います。
 それについて僕がどう捉え、考えたのかは良いとして、ちょうど同じ書店で気になり、あとから電子書籍で買った『あやうく一生懸命生きるところだった』に出てくる、村上春樹作品でのエピソードとリンクしたのがとても興味深かったです。

 それがどんなエピソードなのかについてここで触れるのはそれこそ野暮なので、(村上春樹作品としては珍しく)この『猫を棄てる』も電子書籍でも読めるので、是非読んでみてください。

今村夏子『星の子』

※新しい仕事の拘束時間が長いため、今後毎日の更新が難しくなっています。
 僕の生存確認で読んでいる人がいましたら、TwitterInstagramを覗いてもらえたらと思います。

 読もうと気になっていた小説が文庫になっていたので読みました。
 先日(でもないか)芥川賞『むらさきのスカートの女』芥川賞を受賞していましたが、野間文芸新人賞を受賞したこの作品が、確かラジオ番組で紹介されていて気になっていました。

 


星の子 (朝日文庫)

 

朝日新聞出版 最新刊行物:文庫:星の子

内容朝日新聞出版より)
ちひろは中学3年生。病弱だった娘を救いたい一心で、両親は「あやしい宗教」にのめり込み、その信仰が家族の形をゆがめていく。野間文芸新人賞を受賞し本屋大賞にもノミネートされた、芥川賞作家のもうひとつの代表作。

勝手に五段階評価
★★★☆☆

感想
 今村夏子さんの作品(というか本)を読むのはこれで2回目ですが、正直な所、短編集である『こちらあみ子』の 方が圧倒的に良かったです。

 内容はカルト(宗教っぽい)に入れ込む両親とそれに巻き込まれる姉と主人公を描く物語です。
 ある意味「宗教の人」である僕にとっては、特に目新しいものも何もなく、何故これが高い評価をもらえるのかわかりませんでした。
 高い評価を得ているということは、つまり殆ど人はカルト宗教とは無縁な生活を送っているということなのでしょうか。
 それはそれで良かったと思うのですが、逆に言えば、僕はあまりにも「普通ではない」「宗教の人」にいる、ということなのかも知れません。

 僕自身は父方がクリスチャンだったので、幼児洗礼(自分の意思関係なく赤ん坊の時に)を受けているので、一応クリスチャンということになっています(僕で4代目)。
 そして、僕自身がキリスト教学(と神学)を学んで来たということもあり、「カルト(宗教)」や「新宗教新興宗教)」が割と身近にありました(母が一時期新宗教の教祖の本にはまっていて、僕が小学校高学年から中学生の時はどうすれば良いのかともやもやしていました)。

 大学生の時には(今でもあるのかな?)、大学の校内で近づいてきた人に誘われて行ったイベント(的なもの)がカルトの集会で逃げられなかったり、洗脳されてしまったりすることが起きていて、僕にどうしたら良いのか相談してくる友人もいました。
 ということで、僕にとっては割と身近な「カルト(宗教)」や「新宗教新興宗教)」なので、ここに書かれている内容も、「まぁ、そうだろうな」という程度でした。

 印象に残ったのはラストの場面ですが、それ以外は僕にとっては「当たり前」の光景過ぎて、逆に何故これが高評価を得たのかモヤモヤとしてしまいました。
 なんというか、この作品が高評価を得るということは、それほど日本の宗教リテラシーが低いことを現しているような気もして、残念な気もしました。

ヨシタケシンスケ『ものは言いよう』

 先日書いたヨシタケシンスケさんと伊藤亜紗さんの『みえるとかみえるとか 』、すごく良くて、ヨシタケさんのエッセイ(?)が出ていたな、と手に取ってみました。
 


ものは言いよう

  

ものは言いよう|白泉社

 

内容白泉社より)
数々の絵本賞を受賞している大人気絵本作家、ヨシタケシンスケ。その絵本創作の秘密がすべて詰まったインタビュー&イラスト集。 ユニークな「ヨシタケシンスケのしくみ」「ヨシタケシンスケができるまで」「ヨシタケシンスケの一日」などのイラストや、 スケッチ、アトリエ、本棚、お気に入りの本などの写真も満載。 ファンはもちろん、絵本を好きな人も楽しめる保存版の1冊です。

勝手に五段階評価
★★★★☆

感想
 内容は、エッセイというか、今までのヨシタケさんの仕事を振り返るものになっていて、読者から寄せられた100の質問に答えていたり、どんなきっかけでデビュー作であり代表作の『りんごかもしれない』を出版することになったのか、ということから始まり、今まで(2019年秋まで)出した作品についてもどういう気持ちやきっかけで描いた作品なのかが載っています。
 全部の作品紹介を読んでいて、やっぱりこの2年弱は子どもたちと離れたこともあって読んでいない作品があって、「子どもがいたらなぁ」なんて思ってしまいました。

 けれど、一番良かったのは、これまでどんな本に触れてきたのか、どんな本に影響を受けてきたのかということと、どういう気持ちでつくっているかというについてで、ちょっと長いですが、すごく印象的だった箇所を載せてみます。

 僕が好きなヘンリー・ダーガーさんのエピソードも、要は変なおじいさんの描いた作品が、たまたま世に出す手段を持った人が見つけたから世に出たけれども、あの人の話で一番大事なのは、世の中にはああいう人がいっぱいいる、世の中に出ないままゴミとして処分されている創作物がたくさんある、ということなんですよ。その中にはどんな文豪でも書けない素晴らしい作品があるはずで、世の中に残らない名作はたくさんある。世の中に残るのはごくごく限られた幸運があったものだけであって、残らないものの方が断然多いし、残したくても残せない人がいっぱいいる、ということを言いたいんですよね。


 ヨシタケさんはヘンリー・ダーガーさんに影響されたと書いていて、そのヘンリー・ダーガーがどういう人だったのかというと、もの凄い量の創作物が死後見出されて評価されたという人です。
 これは、去年最も影響を受けた坂口恭平さんも『まとまらない人』の中で似たようなことを書いていて、ただつくるしかないんだ、と。
 それを評価してくれるか、お金になるか関係なく、そんなことを考えることなく、ただつくること、ということを書いていて、だからこそ僕も今までただただノートやメモ帳に書きためていたものを、とりあえず出しちゃえって、Instagramに自分で撮った写真と一緒に短歌や詩を載せるようになりました。

 ヨシタケさんと坂口さんの違う所は、ヨシタケさんはやっぱりそれでも認められたいとか褒められたいって言う気持ちがあるということを書いていて、坂口さんはそういうのはダサいと言っているところです。
 僕はダサいと言ってもらったことで外に出せるようになったけれど、本音としてはやっぱり出したからには認められたり、褒められたいな、という気持ちがあります。

 まぁ、でも、こうやって、僕もまたイラストや絵ではありませんが、つくり続けようと思いました。

岩城けい『 さようなら、オレンジ』

 新聞に載っていた書評を読んで手に取っていた作品です。
 いつか読もうと思ってずっと置いてあったのですが、旅の中で読みました。

book.asahi.com

 


さようなら、オレンジ (ちくま文庫)

 

筑摩書房 さようなら、オレンジ / 岩城 けい 著

 

内容筑摩書房より)
オーストラリアの田舎町に流れてきたアフリカ難民サリマは、夫に逃げられ、精肉作業場で働きつつ二人の息子を育てている。母語の読み書きすらままならない彼女は、職業訓練学校で英語を学びはじめる。そこには、自分の夢をなかばあきらめ夫について渡豪した日本人女性「ハリネズミ」との出会いが待っていた。第29回太宰治賞受賞作。

勝手に五段階評価
★★★★★

感想
 2019年に読んだ小説で、ベストを選ぶとしたらこの作品を選ぶと思います。
チョ・ナムジュさんの『82年生まれ、キム・ジヨン』瀬尾まいこさんの『そして、バトンは渡された』と迷うところですが)

 何故ベストなのかというのは、解説で小野正嗣さんが書いている通りなのですが、日本人による作品なのに「難民」が主人公であること、母語と違う言語、母国から離れて暮らす「移民」の物語であることです。
 ついにこの時が来たか、と。

 崔実さんの『ジニのパズル』のように、日本の中で日本人と同じように生きてきた人が抱える「国」や「文化」「言語」の違いやそこから生まれる「差別」を描いてきた優れた作品は出ていたものの、まだ日本人が他国を背景にして、言語や文化、差別の中で生きる人を描いた作品は出てこなかったように思います。
 そして、単に「日本人」がそれを書いた、というだけでなく、この作品では、サリマというアフリカ出身の主人公を、読んでいる者のすぐ隣りにいる「自然な」存在として描かれています。

 例えば、僕にとって印象的だった場面を載せてみます。

失うかも知れない、サリマは息子たちが父親に駆け寄るところを想像した。そしてさらに驚いたことには、もしそうなっても、自分ははじめからひとりぼっちだったんだから何もかわりはしないという考えが頭をかすめたことだった。いつくしんで育ててきたつもりだが、結局自分の持ち物ではないのだ。子供なんて、と。それでも、失うことは哀しかった。


 突然いなくなった夫。
 二年経ち、必死に働き、子どもたちを育ててきたサリマ。
 突然夫から連絡があり子どもたちに会わせろと要求され、そして、子どもたちを引き取る、と言う。
 その時のサリマの心情です。
 僕は、一人で働き育てていたわけではありませんが、主夫として子どもたちを育てていました。
 そして、それをある日「突然」失いました。
 失ったことはとても哀しい出来事です。
 けれど、「自分ははじめからひとりぼっちだったんだから何もかわりはしない」という気持ちも同じように持っています。

 そして、実際に子どもの内の一人が父親の元に行ってしまったのですが、その時のサリマの心情も迫るものがありました。

でも、いまのサリマに必要なものは、自分を受け入れること、そして走り出すことなのかもしれない。行動が先で結果はそのあとからついてくるものなのだと理解するには、まず労働することを体に覚え込ませなければならなかった。労働で鍛え上げられたいまのサリマにならわかる。自分で立ち上がるしかないのだ。


 「行動が先で結果はそのあとからついてくるものなのだと理解するには、まず労働することを体に覚え込ませなければならなかった。」という言葉。
 労働は何でも良いと思います。
 とにかく動くこと。
 「行動が先で結果はそのあとからついてくる」。
 それを理解するためにはまず、「労働」し、「体に覚え込ませなければならな」い。

 サリマはアフリカ出身の「難民」で、僕とは全く違う環境に置かれています。
 僕とサリマとの共通点はほぼありません。
 けれど、こんなにも「隣りにいる」と思わせる。
 ついに、こんな作品が出てくる時代になったんだ、となんだかとても嬉しい気持ちになりました。

島本理生『あられもない祈り』

 先日来書いている、相田みつをさんの『相田みつを ザ・ベスト にんげんだもの 逢』『相田みつを ザ・ベスト 一生感動一生青春』益田ミリさんの『世界は終わらない』 と同じく、古書店で100円だったので手に取った作品です。
 あまり日本の現代の作家の小説は読まないのですが、自分の中でそろそろ読まないとという感じがあったので手に取りました。


あられもない祈り (河出文庫)

 

あられもない祈り :島本 理生|河出書房新社

 

内容河出書房新社より)
〈あなた〉と〈私〉……名前すら必要としない2人の、密室のような恋――山本文緒行定勲西加奈子青山七恵さん絶賛の至上の恋愛小説。マスコミでも話題になった島本理生の新境地!

勝手に五段階評価
★★★☆☆

感想
 そもそも僕は小説は生きている日本の作家の作品はほぼ読みません。
 例外として村上春樹さんがいますが、現役の小説家の作品を読まないので、佐伯一麦さんの『木の一族』石原慎太郎『弟』は特別な作品ですが(それについては映画「二十六夜待ち」で少し触れました)、二人のそれ以外の作品は読んだことがありません。
 何故かというと、理由は2つあって、1つは、そもそも僕は活字(というか物語)を読み始めたのが高校3年生の時だったので、今いる人たちの作品を読むことより、すでに評価の決まっていて、さらに良い評価の人たちの作品を読むことを優先してきたからです(それでもまだまだ読めていない作品も多いのですが…)。
 もう一つは音楽(歌)にも共通していることでもあるのですが、日本語だとストレート過ぎるので、1度他の言語(僕に理解出来るのは英語だけですが)を通したものの方が直接伝わってこないので楽だということがあります。

 けれど音楽もそうなのですが、大人になって、というか子どもたちを育てている中で、日本語への抵抗もなくなってきていたので、歌に関しては日本語でも大丈夫にはなっていたのですが、小説・物語は読む時間がないので、相変わらずあまり積極的に日本の現役小説家の作品は読んできませんでした。

 が、島本理生さんは僕にとって特別な存在で、いつか読もうと思ってはいました。
 なぜ特別なのかといえば、島本さんは高校生の時にデビューしていて(芥川賞は逃したものの綿矢りさ金原ひとみと一緒に注目された)、進学した大学が僕と同じでさらに同じ学部でした。
 同じ学部(しかも、大学の中では割と人数の少ない学部)だったので、いつか同じ授業で会えたら良いな、と淡い希望を抱いていたのですが、島本さんは2年生の時だったかに中退していました。

 ということで、近いような遠いような存在である島本さんの作品をいつか読もうと思っていたのですが、ようやく機会が訪れました。
 解説を書いている西加奈子さんの評価というか文章を読むとこの作品の持つ価値みたいなものがわかるのですが、実際に読んだ僕としては、正直な所、あんまり響いてきませんでした。

 というのも、主要な登場人物である〈あなた〉と〈私〉に名前がないことが、西さんは高い評価をする理由にしていましたが、僕には逆にその名前がないことが象徴するように、描かれる出来事がぼんやりとしているように感じました。
 リストカットやセックスに関する肝心なところの描写は避けつつ物語が進む。
 確かに「想像」することは出来るのですが、僕にはもう少し書いてくれないと、そもそも何を書きたかったのかがわからなく感じました。

 それは絵画を観るときと同じようなもので、僕は印象派の作品が好きなのですが、逆に抽象画は苦手です。
 そういう絵と同じような好みが小説にも現れたのかも知れません。

 印象派はぼんやりとしているけれど、抽象画のように「想像」をそこまで求められないし、あくまでもある程度の輪郭がある。
 けれど、抽象画はそもそも何を描いているのかを想像することから求められる。
 あくまでも僕の印象ですが、そんな感じです。

 この作品が男女の恋愛を描いていることはわかります。
 けれど、それ以上のことは読んでいてもぼんやりしていてよくわからない印象でした。

大木亜希子『人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした』

 新聞の広告で気になった本なのですが、発売されたばかりだったこともあり、レビューが殆どなくどんな内容なのかわからなかったので、どこか本屋さんでチェックしようと思っていました。
 そう思っていたのですが、そのタイミングで新聞に書評が載っていたので、早速読んでみることにしました。

 

book.asahi.com

 


人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした

 

『人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした』(大木亜希子)特設サイト-祥伝社

 

内容祥伝社より)
元アイドルとおっさん・ササポンの奇妙な同棲生活
「この特殊な生活の中で自分が変われるかもしれない」
仕事なし、彼氏なし、元アイドルのアラサー女子。
夜は男性との「ノルマ飯」、仕事もタフにこなしているつもりが、ある日突然、駅のホームで突然足が動かなくなった。
そして、赤の他人のおっさん(57歳)と暮らすことに──。
WEBマガジン『コフレ』連載中から話題沸騰!
読めば心が少し軽くなる、元SDN48の衝撃の私小説

勝手に五段階評価
★★★★☆

感想
 
はっきり言って読んでて結構つらかったです。
 それは、著者である大木さんがこれでもかと「年齢」「(結婚の)適齢期」「三十路」とたたみかけてくるからです。
 たたみかけるというか、正確には大木さんがそれらの価値観に囚われているということなのですが、35過ぎでバツイチ、低年収、独り身、平社員の身としては、これでもかと、僕自身の現実を目の前にたたきつけられるような気がしました。

 僕自身は自分がとりあえず生きて行けているのだから、生きていけるお金をもらって、(多分次の仕事は)楽しんで行けそうなので、それはそれで良いという気持ちがあります。
 それと同時に、やっぱり誰かパートナーがいると良いなという気持ちもあります。
 その「パートナーがいると良いな」ということに関して、「年齢」とか「年収」とかの価値観を突きつけられると、35過ぎでバツイチ、低年収、独り身、平社員は明らかに「不良物件」な訳で、そういう「不良物件」だと考えるような人とはそもそも価値観が違うのだから、という気持ちもありますが、それでも正直つらいな、と。
 そんな気持ちになりつつも、同居人である55過ぎの離婚歴あり独り身ササポンと大木さんとのやり取りが印象的でした。

「なんで、その子が結婚しちゃうと、同志じゃなくなっちゃうの?」
「いや、これからも一生大切にしたい関係ですけど。これまでとは同じような関係ではいられない気がするんです」
 するとササポンは、淡々とした顔で一言、ぼそりとつぶやく。
「別に、結婚が幸せとは限らないけどね」
「は、はい……」
「死ぬときゃ、どうせひとりだし」
「は、はい……」
 私が押し黙っていると、ちょうどTVから孤独死関連のニュースが流れる。
「僕の理想の死に方は、ひとり軽井沢の高原で雪の日に足を滑らせて、頭打って誰にも迷惑をかけずにこっそり死んで、雪解けと共に発見されることかなあ」

 
 ササポンの「死ぬときゃ、どうせひとりだし」という言葉と「僕の理想の死に方は、ひとり軽井沢の高原で雪の日に足を滑らせて、頭打って誰にも迷惑をかけずにこっそり死んで、雪解けと共に発見されることかなあ」っていうのに、とても共感しました。
 結局死ぬときは一人なんですよね。
 でも、誰かと一緒にいたいなぁ、という気持ちもある。

 また、その結婚する友人が言った言葉もとても印象的でした。

 

「いくつになっても、パカみたいに騒いでいいじゃん。年齢なんて、ただの記号だし」

 
 この年末に、数年ぶり(というか10年の方が近いくらいの人も)に再会した人が何人かいました。
 それで感じたのは、同じだけの時が経っているけれど、その重ね方、周りからの見え方は本当に人それぞれだな、と。

 僕はそもそも大学に入ったときから「ホントに10代かよ」とか「落ち着いてる」とか言われてきたので、今回も色んな人から「変わってないねぇ」と言われたのですが、ホント、年齢なんて、ただの記号で、それに囚われる必要はないのかな、と。
 僕と同世代というか、30歳を超えてくると特に男は見た目がすごく変わる人と変わらない人がはっきりしてきて、太ったり、白髪になってきたり、薄毛になって来たりとすごく変わってきます。
 というか、いつもは自分の年齢はあんまり気にしないのですが(人とは違う人生を歩んできたということも大きいです)、この本ではこれでもかと年齢を突きつけてくるので、あぁ、自分やばいんだ、とメンタルがやられそうになりました。